私たち子ども3人が通った小学校は我が家のすぐ近くにあった。1年間だけ3人が通った年があった。そしてその年から父はPTAに関わるようになった。

 

 その当時からPTA役員の選出は問題だったようだ。しかも会長ともなるとなかなか決まらない。我が家は商売を営んでいたために父は比較的時間の自由がきいた。当然候補者となった。多くの方がお願いに来たけれど、父はなかなか決心がつかなかった。しまいには校長先生までもが挨拶に来てしまい、両親は首を縦に振るしかなかった。

 

 最初の大きな仕事は入学式の挨拶だった。夕ご飯を終え、一息つくと父は挨拶文を一生懸命に考え、紙に書き、当時存在したテープレコーダーに吹き込み、聞き直し、繰り返し練習していた。妹の晴れの入学式、もちろん母も参列者で、私は新6年生で在校生代表として出席だ。ここで失敗したら、威厳に関わる。父の練習量は半端じゃなかった。人前で挨拶するなんて、経験もなかったのだから。入学式を迎える前に、私は自分ができるんじゃないかと思うほど、その全文が頭に入っていた。

 

 当日は、聞き飽きた『PTA会長の挨拶』を上の空で聞いていた。そして、見たこともないような父の表情もボーッと見ていた。父は滅多に締めないネクタイをしたスーツ姿で壇上の中央に堂々と立っていた。

 

 その後、何が大変かって、それは父よりも母の仕事だった気がする。なんと平和な時代だったことだろう?昭和40年代……。結構な割合で仕事終わりの校長・教頭・そのほか宴会好きの男性教師らが我が家に集まるのだ。今じゃあ、絶対に考えられない。母はそのたびに煮物を作ったり漬物や酒の肴を用意した。父はおちょこ一杯で顔を真っ赤にするほどの下戸であったが持ち前のおしゃべり・冗談好きを駆使してお付き合いしていた。それまで置いてなかったアルコールの類が我が家の台所に、冷蔵庫に、鎮座するようになった。その間、私たちは別の部屋に追いやられた。当時は今のように子供部屋などなく、茶の間でおとなしくテレビを見ているしかなかった。

 

 ある日の宴会の席、私は教頭先生に呼ばれた。今でいう副校長先生は、骨に皮だけが張り付いているようなスリムさで、眼鏡をかけ、神経質そうだった。いきなり

「ここに来い」

と言われ、横に正座をした。先生は、顔をしかめたくなるほどのお酒の匂いを思いっきり吐きながら

「自分の限界まで頑張ってみろ!自分の限界に挑戦しろ!」

と言ったのだ。

 

 私はがむしゃらに頑張ることが昔から苦手だ。辛い思いをした結果、自分はここまでなのか、って思い知らされるだけだもの。それなら、本当はもうちょっとできるけど、余力を残しておくんだって方がラクだ。限界なんて知りたくない。ちょっと余裕があったら安心できる。これは、引っ込み思案な娘に先生からひと言喝を入れてもらおうと、父が裏で指導を頼んだに決まっている、私はそう思った。

 

 とっくに折り返し人生を過ぎた私、未だ限界知らず。