フォーリンラブのバービーさんは実はインドネシアで歌手デビューしているそうです。彼女が久しぶりにインドネシアに行って思った話がとても興味深かったので紹介したいと思います。
コロナで6年ぶりのジャカルタはかなり変わっていた。何もかもがグレードアップしていた。ビルはほとんど完成していて、ホームレスさんもかなり減った印象だ。でも南国特有の適当さは残っていて、目を細めるとミッキーマウスやキティちゃんに見えなくもないチョコが一つの容器に入って売られていたりはするが、デパートに入る際には、セキュリティチェックもされるようになっていた。
到着したのは夜。イベントかお祭りでもあったのかな?という感じで、人々が街の至る所に腰かけている。歩道の植え込みや、ビルの外構には腰かけるスペースがたくさんあって、カップルやグループが年齢を問わずお喋りしていた。
日本では、路上飲みが問題になったり、トー横にたむろする若者などが問題視されているためか、「路上に居座ること」はタブー感がある。品がないとか不良というイメージもある。日本ではあまり見かけない光景なので、不思議に思い、一緒にいたインドネシア人に聞いてみた。
「こんな時間にみんな何やってるの?」
「え? 何が? 遊んでるだけだよ」
友達と会って、お金も使わず、路上でおしゃべり。これを「遊ぶ」と表現していることに、カタルシスを感じてしまった。スケボーするでもゲームをするでもなく、ただただおしゃべりして笑ってる。これが今のジャカルタの日常らしい。「みんな普段仕事してるの?」「明日早くない?」と心配してしまうくらいバケーション感がある。
これはインドネシアに限った話ではないが、国際便の機内は発着ギリギリまで、みんな誰かと通話している。ひとりで歩いてる人も明らかに仕事ではないような電話をしている。「そんなにコミュニケーションを取らずにはいられない?」「それ本当に今話さないとダメなやつ?」って日本人の私はつい思ってしまう。だが、逆に言えば、日本人がコミュニケーションを取らなさすぎるのではとも思えてきた。用事のない電話など、かれこれ10年はしていない気がする。
ヨーロッパにはたむろのための広場が重要な役割を果たしてきたし、ベトナムのベトナムコーヒーだってみんな路上で飲むからいい。台湾じゃ公園で太極拳。しかし、日本、特に都市部には集うことを想定された場所がほとんどない。外の空気を浴びて、食べたり会話するのは気持ちいい。風に吹かれながらだと普段言えないことも言えそうな気がする。
マジョリティでないことは恥ずかしいことで、迷惑をかけるのではないかという意識を、誰しも多かれ少なかれ持っていないだろうか?そうして培ってしまった自己肯定感の低さは、ねじ曲がった自己愛になり、さらに他人を寄せつけない。すべての人は、誰かになにかしらの迷惑をかけずに存在するなんて不可能なのに。恥を欠かずに人と深く関わることだって。
「寂しいから、側にいてほしい」「困っているから話を聞いて欲しい」となかなか言えないのは、わかる。でも、多言語で外国人には言える気がしてこないだろうか?そんな気がしてくる人は、これまでに日本で培った先入観が邪魔しているのかもしれない。「迷惑をかけてはいけない」。この言葉に、私たちは縛りつけられすぎなのではないか。
「~したら嫌われるかも」
「って思われたら恥ずかしい」
「人目を気にして思うように行動できない」
親や学校生活などで、そう思うように刷り込まれてきた言葉は、なかなかどっかにいってくれないものだ。私自身、自己責任の罠にハマっていたのだとインドネシアの人々を見て気づいた。「路上で何やってるの?」「ただ知人と遊んでるだけだよ」。堂々とそんな風に言えるのは、とってもハートフルで豊かなことでもあるのだ。
日本は静かで過ごしやすく規律や協調を重んじるとても良い文化がある反面、「人に迷惑をかけてはいけない」という暗黙のルールがたくさん存在します。しかし、それがある意味日本を窮屈な国にしてしまってはいないのかなと思ったのでした。
