これが現在私の自動車運転免許証に記載されている条件である。
平成元年当時、一種免許には「普通」と「大型」の2区分しかなかった。「普通免許」で軽自動車から総重量8t、一般に言われている4t車までは運転出来た時代であった。軽自動車も平成元年2月に長さが3.2mから3.3m、排気量も550ccから660ccになったばかりで街中には今よりはるかに車高の低い軽自動車が大半だった。
運転免許を取得しようと自動車学校に通ったのは大学4年生の夏、二子玉川のコヤマドライビングスクールだった。当時、桜新町駅徒歩10分のアパートに住んでいた私は新玉川線で2駅先の二子玉川駅まで電車に乗り、駅からはスクールバスで学校へ。就職活動の合間を縫ってだった。
1段回目の1時限目はオートマでの教習、それまで全く自動車のハンドルを握った経験は無かった。初めてハンドルを握りアクセルペダルとブレーキペダルを踏むのだから恐る恐る運転して直線25kg/hも出せていなかったと思う。そうして1段階1時限が終わったが教官に「運転したこと無いの?」って驚かれた。無免許で公道外で練習して運転慣れてから免許取りにくる人たちが結構いたんだろう。
当時二子玉もまだまだ田舎だった。駅前は高島屋があって綺麗ではあったけど、ちょっと行けば畑だらけ、コヤマ二子玉川校は多摩川の河川敷の狭い学校で校内の最高速度は35km/hの短い直線だったが、それでも運転超初心者には怖くて35km/hのスピードを出す時は覚悟してアクセを踏んでいた記憶がある。
まあまあすんなり3段回までは通過出来、仮免の試験も通り路上教習へ。二子玉川という土地柄、主に使うのは中原街道だった。確か当時片側2車線で通行量も少なくはなかったが比較的運転しやすかったが、ある教習の時間にいつもと違う道を走るように言われた。言われるがままに走ってたどり着いたのが環状8号線。初めての片側3車線である。その上通行量が中原街道の比ではない上にトラックなどの大型車の量も半端なく、その大型車がフルスピードで左右を走り抜けていた。246号から環八に入って用賀インターを過ぎて高井戸方面に走らせるのだが3車線の真ん中の車線をしばらく走っていたが、突然教官に「右車線に進路変更して」と突然言われた。右車線はトラックが多分60kg/h以上で走っている。そこでの突然の車線変更は「マジビビった」が本当素直な感想で、中央分離帯寄りへ
の車線変更がなかなか出来ずウィンカーを出しながらブレーキを踏んで30kgぐらいに速度を落として、多分右車線の車にブレーキを踏ませて流れを悪くしてやっと車線変更したがその教習は判子は当然もらえなかった。
卒検クリアして、東京は鮫洲、江東、府中の試験場で免許が取れた。私は鮫洲で取った卒検終了後東京都民には大した説明は無かったが、二子玉川の土地柄神奈川県民も多い、神奈川県は二俣川試験場一択で二俣川駅は相鉄の駅で田園都市線沿線からは必ず乗り換えが必要で時間がかかる時代だったのでかなり念入りに説明をされていた。
そうして12桁の頭30(運転免許証番号の最初の二桁は初めて運転免許証を取った都道府県の番号でその番号は免許取消しや失効しない限り変わらない。東京都で免許証を取ると30から始まる)の運転免許証を更新し続けているが、普通一種で取ったのに今では中型一種免許である。いつの間にか準中型なんて区分も出来てしまった。さすがに4t車は全長6mから9mある。大き過ぎて運転経験は無いが2t車までなら経験がある。2t車でももう怖くて出来ないだろう。
以前車検の代車が手違いで中型8t限定のキャラバンしか無くて運転免許証上は問題ないが運転したけど内輪差とバック本当怖かった。中型8t限定はYouTubeは昭和世代だけが持てるプラチナ免許なんて紹介されているが、よほど若い頃から4t車に乗らなければならなくて乗りまわしていた人以外にはプラチナ感を感じられないだろう。
車の値段もどんどん高くなっていて、自分的には軽自動車には乗りたくないけど乗り回しのいい小さめの5ナンバーでコスパのいい車を探している。


