【著者とのコラボ記事】



■苦痛による人類進化論-自然体で生きる
大上泰弘

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<遺跡と化石 - 神性の起源?>

先日、Yahoo NEWSで、「古墳を取り囲む無数の太陽光パネル」というタイトルが目を引きました。このNEWSを読んで、改めて持続性の価値について考えさせられました。
何でもいいから残せばいいのか、人々が触れる形でなければ意味がないのか、等々。情報が残れば良いということなら、写真・ビデオ撮影、更には、超音波・電磁波を使って断層撮影を行い、デジタル情報として保存すれば良いということになります。
一方、それでは古墳の成分、変化の履歴、周辺環境の中の存在意義等々、現物性・現場性は失われてしまいます。

一方で、私はアンモナイトや三葉虫の化石を数個持っているのですが、20-30年間それらを物置にしまい込んでいました。
それがここ2-3年、物置から取り出して文鎮代わりに毎日使っているのです。というのは、ある時、しまっておいたままでは、何の価値もないなあと思い、毎日化石に触れる生活をしようと思ったからです。
こうして毎日化石と生活しているのですが。化石の魅力が色あせることはありません。
かたや、衣服、靴など生活関連品のほとんどは、使えば使うほど、傷みが出て、色も褪せて、価値が減少しているように感じます。

遺跡はお墓や廃墟ですし、化石は死骸です。いずれも現世的価値観では気持ち悪いものですが、多くの人々は遺跡を好んで観光しますし、化石マニアもいます。なぜでしょうか?
遺跡には、人が亡くなった生々しさはなく、人が存在したという「偉大さ」だけが響いてきます。化石の場合は、死骸の気持ち悪さは消滅し、「良くここまで残ったなあ~」という感動が生じます。
いずれも "Something Great:何か偉大なもの"、言い換えれば「神性」を帯びてくるのではないでしょうか。
このような心象は、もしかすると、人類が「神」という観念を生み出したメカニズムと同じようなものかもしれません。毎日化石に触れる行為は、信仰に近いものなのかもしれません。

私は著書の著者紹介欄に、「方丈記」にあるような自然体の生活を送りたいと書きました。その意味は、「自然物が朽ちていくのも価値」だと思っているということなのです。
数年前に千葉の古墳を訪れた時に、古墳の上で遊んでいる子供たちを見ました。あの古墳は風化していきますが、子供たちの大事な思い出という形で残っていくのだなと感じました。
古墳を保存すべく人が触れられないように囲わなくても、思い出という形で残るという持続性 (価値) もあるのではないでしょうか。

大上泰弘

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