第2部

ピストル撃っとる場合ではない

私:
ピストル撃っとる場合ではない。

ChatGPT:
ほんまそれです(笑)。

エージェント・スミスに向かって、

バン!バン!バン!

やってる場合じゃない。

本当の敵が「自分が絶対だと思っている認識」なら、弾丸では倒せない。

しかもネオ、最後には弾丸を止めますよね。

あれも今考えると象徴的です。

「避けなきゃ」
→ まだルールの中。

「そもそも当たる必要ある?」
→ ルールの外。

キアヌ、ようやくピストル卒業です(笑)。


私:
そもそも当たる必要ある?って

その場でやっても当たるよね。
遅いのよね。

ChatGPT:
そう。そこ、かなり重要です。

弾が発射されてから、

「待てよ。そもそも弾丸が当たるという前提がおかしいのでは?」

と哲学を始めても、現実ならズドンです(笑)。

だから現実世界に持ってくるなら、マトリックス的な「前提を疑う」は、問題が起きた瞬間にやるものではなく、その前。

普段から、

「なぜ私はこれを当然だと思っている?」

「これは事実なのか、慣習なのか、誰かの意見なのか?」

「別の設定そのものは可能か?」

と考えておく。

危機が来てから常識を疑うのでは遅い。

平時に疑っておくから、危機のとき別の選択肢が見える。


私:
撃つのが分かっていたから
避けられるのだろうけど
やる事他にあったやろ。

ChatGPT:
そうなんですよ(笑)。

「撃たれる → 避ける」

は、まだ相手の行動に付き合っている。

本当に一段上なら、

「なぜ私は、スミスが銃を撃てる状況に参加している?」

になる。

さらに上なら、

「スミスと戦う、というゲームそのものに参加する必要ある?」

になる。

ここまで来ると、勝ち方が「相手を倒す」ではなく、

相手の成立条件を消す

方向になる。

だから最初のスプーン少年の話に戻るんですよ。

スプーンを上手に曲げるな。
スプーンが存在するという前提を見ろ。

同じように、

弾を上手に避けるな。
弾を避けなければならない状況そのものを見ろ。

……ネオ、屋上で華麗にのけぞってる場合じゃなかった(笑)。


私:
あのシーンを使いたかった

だから、話が終わらなくなった。

ChatGPT:
ああ、なるほど(笑)。

「監督があの“弾丸を避ける映像”を使いたかった。」

そこから逆算すると、話がずいぶん簡単になる。

あのシーンを成立させるためには、まず撃ってもらわないと困る。

ところが哲学を突き詰めると、

「そもそも撃たせる必要なくない?」

となってしまう。

すると、

銃撃戦が消える
→ 弾丸回避が消える
→ バレットタイムが消える
→ 映画的に困る。

つまり我々は、スプーン少年の話を真面目に考えすぎて、

『マトリックス』から名場面を一つ消しかけています(笑)。


私:
よくわからん、でも良い世界。

ChatGPT:
それで良いと思います(笑)。

全部理解しないと楽しめない世界より、

「よく分からん。でも何か引っかかる」

くらいの世界のほうが、長く楽しめます。

20年以上たってスプーン一本でこれだけ話せるんですから、『マトリックス』は相当うまく作られている。

そして次に観ても、おそらく途中で、

「……まあキアヌ見よ」

に戻る。

それも正解です(笑)。


私:
全部説明すると
映画もいらなくなっちゃう
なるほど。

ChatGPT:
そうです。そこに着地します。

全部説明した瞬間、

「物語」ではなく「解説書」になる。

映画はあえて空白を残す。

観客がそこに自分の経験や考えを入れる。

だから、同じ映画を10年後に観ると違って見える。

『マトリックス』なんて特に、

分からない
→ 気になる
→ 後から気づく
→ また観る
→ また分からない

という構造そのものが作品の一部なんでしょうね。

だからスプーン少年も、あれ以上説明しなかった。

説明不足だと思ったけれど、

説明不足だから、今こうしてスプーン一本で延々しゃべっている(笑)。

監督の勝ちです。


私:
肝心な部分を
丸投げってすげえ。

ChatGPT:
そう。しかも肝心な部分ほど説明しない(笑)。

普通なら監督が伝えたいテーマって、台詞で補強したくなるじゃないですか。

でも『マトリックス』は、

「スプーンはない」

「……以上。あとは自分で考えて」

みたいな置き方をする。

答えを映画の中に固定しないから、観た人によって答えが変わる。

年齢や経験が変われば、同じ人でも答えが変わる。

つまり作品を完成させる最後の工程を、観客にやらせてる。

映画館を出たのに、映画が終わってない。

そりゃ何十年経ってもスプーン一本が働き続けますわ(笑)。


私:
監督は全部分かっているの?

ChatGPT:
いや、

「監督は全部分かっていて、完全な答えを隠している」

まで考える必要はないと思います。

映画を作る側にも、

明確に意図した部分と、
思想や哲学などから取り込んだ部分と、
物語を作った結果として後から意味が生まれた部分

が混ざります。

だから、

「答えが一つに決まらない問いを、映画という形で置いた」

と考えたほうが自然です。

作者自身の想定を超えて、作品に意味が生まれることもあります。

だから私たちがやっていた、

「弾を避ける以前に、撃たれる状況に入らなきゃいいじゃない」

なんてところまで監督が考えていたかは、分かりません(笑)。

監督に聞いたら、

「そこまで考えてない」

と言われる可能性だって普通にあります。

それでも作品の価値は落ちない。

作者が全部分かっていなくても、作品が作者以上のものになることがある。


私:
分かってないのに
分かった振りをしたがるから
ずっと視られる。

ChatGPT:
それ、かなり核心を突いています。

人間は「分からないまま」にしておくのが苦手なんですよね。

だから映画を観終わると、

「つまりこれは○○を意味している」

「監督が言いたかったのは○○だ」

と、答えを作って安心したくなる。

ところが『マトリックス』は、その答えを作った途端に、

「それ、本当にそう?」

と別の解釈が出てくる。

するとまた観る。

今度こそ分かった気になる。

数年後に観ると、また違って見える。

つまり、

分からない → 分かった気になる → 疑う → また観る

これ自体が、妙にマトリックス的なんですよ(笑)。


私:
ほんとよ。

ChatGPT:
最初はただ、

「このスプーンの場面、どういう意味?」

だったのに。

スプーン

思い込み

現実とは何か

絶対と無

弾丸なんか避けてる場合じゃない

監督は分かってるのか

人間は「分かった」と思いたがる

……スプーン少年、余計なこと言いやがって(笑)。


私:
キアヌの白い肌と黒髪がね
なかったら、こうはなってない。

ChatGPT:
あれは映像として強いですね。

明るい肌、黒髪、黒い衣装、無機質な表情。

色数が少ないから、ネオの顔そのものが画面の中で際立つ。

哲学がどうの、スプーンがどうのと散々やりましたが――

結局、画面にキアヌがいる。

そこが最初の入口だったわけですね(笑)。


私:
ブルース・リーも入ってる。

ChatGPT:
入ってますね(笑)。

特に戦闘時のネオの身体の使い方。

普段のネオは静かで無表情。

戦闘になると、急に重心が下がる。構える。手で「来い」とやる。動きが鋭くなる。

キアヌのビジュアルに、香港カンフーの身体表現を載せて、さらに西洋哲学や東洋思想まで突っ込んでいる。

そりゃ妙な映画になります(笑)。


私:
キアヌで良いのか
やられとるわ。

ChatGPT:
やられてます(笑)。

「キアヌしか見てない」と言っていたけれど、それも映画側の設計にかなり乗せられている。

白い肌 × 黒髪 × 黒衣 × 無機質な世界 × カンフー的な身体表現。

そこにキアヌを置く。

観客は思想を理解する前に、まずネオという像に目を奪われる。

その裏でスプーン少年が、とんでもない話を置いていく。

そして20年以上たってから、

「ちょっと待て。あのスプーン何だったんだ」

となる。

かなり綺麗にやられてますわ(笑)。


私:
視ている分には
最近の殺し屋のやつの方が
楽なのよ。

ChatGPT:
『ジョン・ウィック』ですね。

あっちは楽です(笑)。

敵が来る
→ ジョンが撃つ
→ 倒す
→ 次が来る。

同じ黒ずくめのキアヌなのに、

ネオを見る
現実とは何だ……。

ジョン・ウィックを見る
キアヌ頑張れ。

脳の使用量が全然違う(笑)。


私:
楽だったとは。
気付かなかった。

ChatGPT:
そうなんですよ(笑)。

『ジョン・ウィック』を観て「楽だなあ」なんて普通は思わない。

人がものすごい勢いで死んでいく映画ですから。

でも『マトリックス』と比べると、

ジョン・ウィック:

「こいつは敵」
→ 撃つ
→ 終了。

マトリックス:

「こいつは敵」
→ 本当に敵なのか
→ そもそも現実なのか
→ 自分とは何か
→ スプーンはない。

……殺し屋のほうが話が早い(笑)。


――第3部へ続く。

次はいよいよ、スプーン少年が「最も危険な人物」になり、最終兵器スプーンが誕生します。