昨日は、加古川での勤務を終えた後、神戸駅近くのクリスタルビルに移動し、SCWH支援の総括本の編集会議に参加してきました。
クリスタルビルの4Fには、県立神戸生活創造センター があり、ボランティアなどの団体に対し、ミーティングの場所の提供やコピー機の貸し出しなどを行なっています。AMDA兵庫 の小会議としてよく使用する場所ですね。(事前に登録が必要ですが。)
会議には、仕事を終えて忙しい中、3人が集まっていました。SCWH設立から現地での支援までずっと携わっているSCWH支援室長のO副代表と、AMDA兵庫 の事務を支えてくれているIさん、Yさんのお二人。そして、今回は所用で参加できなかった、財務局長のN先生が中心となって、編集を手がけてくれています。僕も時間のあるときは、日本での後方支援の総括者として、こうして会議に参加しています。
こうしてAMDA兵庫 には、N先生、Iさん、Yさんのように、医師や看護婦以外の方々も、事務担当や財務担当として、AMDA兵庫 やSCWHの支援に携わって下さってるんだなあ、って改めて感じています。
AMDAネパールこども病院(SCWH)支援の総括本の編集をするきっかけとなったのは、「SCWH設立7周年を迎え、AMDA兵庫のSCWHに対する支援を総括し、さらに今後の支援の方向性を確認しよう」との考えからでした。
SCWH支援の総括本の編集も、原稿集め、資料集めがほぼ終了し、インデックス(目次)の作成に取り掛かっていました。久しぶりに参加したら、大分と作業が進んでいるのに少しびっくり。皆さんの尽力のおかげですね。
懐かしい資料に目を通していると、改めてSCWHの設立当時の事などが思い出されました。
僕もこのブログで、設立までの流れなどを書いてきましたので、ちょっとレビューしてみましょう。
「ネパールにこども病院を創りたい」という夢を持っていたのは、当時ネパールから兵庫県立こども病院に研修に来ていたネパール人研修医、ポカレル医師でした。(その記事はこちら )
そして、その夢をかなえようと、余命をかけてネパールこども病院建設に奔走したのが、故篠原医師。(その記事はこちら )
その二人が、夢をかなえようと奔走し始めた頃、阪神大震災がありました。そして、神戸にはお互いを支えあう優しい気持ちが溢れるようになりました。(その記事はこちら )
そして、阪神大震災のお礼をしようと、毎日新聞社会事業団と毎日新聞が中心となり、紙面でキャンペーンを組んだところ、被災地から1万件、5000万円もの浄財が集まり、ポカレル医師、篠原医師の夢が具体化しました。(その記事はこちら )
病院の建設には、西宮在住の有名な建築家、安藤忠雄氏が設計に携わって下さいました。(その記事はこちら )
そして、AMDAネパールこども病院は、ネパールのこどもたちと女性たちに医療を提供する病院として、名称が、Shiddartha Children and Women Hospital (SCWH) と決まりました。(その記事はこちら )
こうして、SCWHは、1998年11月2日、オープンの日を迎えました。(その記事はこちら )
その後も、多くの日本人医師や看護師、薬剤師、現地調整員がSCWHを訪れ、病院の支援に携わってきました。また、日本でも運営や機材購入などの資金集め、事務や財務担当として、多くの人達が尽力してくれました。
その結果、外来患者数はどんどん増え、一日200人以上、1ヶ月で5000人を超えたことも。延べでは、30万人を超えました。(グラフ、縦軸は人数で1000人単位、横軸は二ヶ月ごと)
また、入院患者数もどんどん増え、5年目には1ヶ月600人以上に。延べ人数は、3万人を突破。(グラフ、縦軸は100人単位、横軸は2ヵ月ごと)
SCWHで生まれた赤ちゃんの数(分娩数)も、1ヶ月に300人に迫る勢い。昨年、1万人目のこどもが誕生しました。(グラフ、縦軸は50人単位、横軸は2ヶ月ごと)
こうして思い起こしてみると、本当に多くの方々が設立と運営に携わってくれたんだなあ、ということを痛感しています。
編集会議に参加して、このAMDAネパールこども病院を守っていかなければ、という思いを改めて強くした一日でした。
SCWH支援の総括本、出来上がりが楽しみですね。できたら、また報告しますね。
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