きれいな発音をする練習に意味がない理由(補足2) | 英語学習雑感ブログ

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日本人がきれいな発音をすることにこだわることは、日本人のある癖とも密接に関わっているようです。

それは、仏教用語を取り入れようとしたときに、起こった現象に似ています。

 

仏教にも宗派があるので、どれかに例を絞って説明しましょう。

 

南無妙法蓮華経

 

という言葉です。

とりあえず「法華経の教えに私は帰依する」という意味です。

これを日本人はどのように取り入れていったかというと、意味が全く分からない状態で、漢字で音を表し、それをきちんと発音することによって、全く意味が分からない本来の意味が理解できるとされたのです。

後に、漢字で音を表すのが面倒であるということで、カタカナ語が使われるようになりましたが、このカタカナ語をきちんと発音すると、何か良いことがあるという誤った考えが流布することになりました。

 

プラトンの対話編を見れば分かるように、対話に参加している人々が、それぞれ納得した上で答えを求めようとしているのに対し、この仏教の理解の仕方は、周りにいる人はどうでも良い、自分がひたすら「カタカナ語(元は漢字)」で示される音をきちんと発音すると、元の意味も理解できるという、今日のインテリ信仰に繋がる、むやみに英語ぶっているけども、カタカナ語礼賛、という信じられない現象に繋がっていると思います。

元の漢字自体が当て字にすぎないわけですから、それをきちんと発音しても意味が分かるはずはないのです。今日では、サンスクリット語のどのような語句が漢語に音写されたのかということが分かっているので、遙かにまともな説明ができるわけです。

自称インテリ達は、自分はこのカタカナ語をきちんと発音すると、インテリの仲間に入ったような錯覚を覚えるということなのです。このようなことがあるために、ベクトルとか、パイレーツとか、ドイツ語でも英語でもないカタカナ語を使う、えせインテリがたくさんいるわけです。

このブログでも紹介したように、vectorは、「ヴェクトーア;フェクトーア」のように主にドイツ人は発音し、ドイツ語を輸入した大先生が誤って使っていたカタカナ語「ベクトル」は、日本のえせインテリ以外には使われない言葉になっています。ちなみに英語では「ヴェクター」のように発音されます。

パイレーツも、このブログで既に紹介したように、「パイアリト」のように英語で発音されるのが普通ですが、インテリぶるバカな大学教授どもが、海賊というまっとうな言葉を使わずにパイレーツと発音しているだけです。

ちなみに、MLBのチーム名も、NHKが誤ってパイレーツと発音していますが、stadiumも、「ステイディアム」という正しい音に近い発音をせずに「スタジアム」と発音しています。このような、カタカナ語は腐るほどあります。

 

話し合いから新しい知見に到達しようとするならば、参加者を蹴落とすような、きれいな発音にこだわるということはせずに、できるだけ参加者の発音が妨げにならないような工夫をするはずです。

論破することが、民主主義の議論の本質であると思っている方は多いですが、そのような勘違いは早いうちに訂正した方が良いでしょう。

五・一五事件が起きたときに、当時の首相犬養毅は、話せば分かると、軍人達に涼しい顔をして語ったというが、これが、軍人達には自分たちは置いてきぼりにされ、論破されてしまうと危惧したのでしょう、問答無用ということで、銃殺されることになりました。

論破の本質は、仲間はずれにすることにすぎず、仲間はずれにされた人間は、多数決に参加できず、多数の横暴の犠牲者になるだけなのです。

 

それに対して、ジョン・スチュアート・ミルは、民主主義の大切さを次のように述べています。これは、皆さん、英語で読むことが可能なので、ご自分でお読みになることをお勧めします。ちなみに、大学入試問題にも採用されているので、目にする機会は多いと思います。

1人の人を除いて、他すべての人々がある意見で纏まっているときに、その1人の人を無視してしまうべきではない、というのが大筋です。

理由としては、その1人の人が優れた意見を持っていて、その人を無視してしまうと、貴重な意見が失われる、というのは、たいして重要なことではないということです。

そうではなく、その一人の人の意見が間違っていることを、他すべての人々が論じることによって、討論の本質が、学べ、民主主義の精神も根付くということなのです。誤った考えは、こうだから、誤っているのだと、討論に参加することによって、より明確になるということなのです。

このような態度は、今の論破を主流にする人々には決して見られないことで、相手を排除する行為なので、討論が進まないのです。

「そんな初歩的なことも分からないのか。勉強してから出直してこい」

これでは、討論になりません。

 

台湾の元デジタル担当大臣であったオードリー・タン氏も、できるだけの少数の民意を政治に反映できるようにする工夫ということを紹介し、自分の行動が一般民衆に了解されるように、自分の行動をデジタルで記録し、一般民衆が確認できるようにしたのは有名です。

彼も、とてつもなく天才で、まわりから浮いていたので、多数の横暴に苦しめられることは多かったようです。

 

 

結論

きれいな発音をする練習をするくらいなら、きちんとした発音をできない人々をできるだけ討論から排除せずに参加させ、本人ができるだけ納得できるようにする。

 

これこそが、これからの開放的な科学の世界に不可欠なことではないでしょうか。

本当に科学的な精神は、実は、民主主義の精神と相通じるところがあるのです。