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しょこらぁでのひとりごと

羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。


 気がついたら7月になっていた。久し振りに自分のブログを開いてみた。

前回の記事から2ヶ月以上経っている。

そんなに書かなかったのか、という気持ちと、随分前のことのように感じるのに、まだそれだけしか経っていないのか、という両方の気持ちがある。

以前から、気が向いたときに書く気ままなブログだったから、今回の空白もお許し願います。

そして、本来なら今日はピアノコレクションの演技についての記事をお約束通りに書くべきだと思うけれど、今回書きたいのは《哲学》のお話です。すみません。


羽生選手が『水の中の哲学者たち』の著作者、永井玲衣氏と哲学対話する、ということで、大変楽しみにしていた。今回公開されたのは、まだその最初の部分だけだけれど、深く心に響くものがあった。


(以下、ネタバレ含みます。)




今回特に心に残ったのは、その前振りとなる部分の羽生選手の言葉だった。


まず、彼自身のEchoesについての話で、

羽生選手は、『すごく大それたことを言うと、日本が良くなっていくというか、世界が良くなっていくに当たって必要なのは、考えることなのかなと僕は思って、 』と語っている。

それは最近私も凄く考えていたことだった。


『自分で考えること』の大切さ。


誰かが明快に、ズバッと一言で問題を解決出来るかのような考えや言葉を述べると、それは受け取る側にとって、とても快感だ。

そしてその言葉を100パーセント信じて、自分で考えることをやめてしまうことは、とても楽で高揚感を伴うだろうと思う。

同じような仲間がいれば、その集団の中にいることがどれほど心地良いかは、想像に難くない。


しかし、それは分断を生む。


私には、今のこの世界の生きづらさの多くが、この分断に起因しているように思えてならない。


羽生選手は、この世界が良くなっていくために必要なのは、『考えること』だと言う。

『自分が考える』こと。

一人一人が、考えること。考え続けること。


自分で考えること、考え続けること、は、結構大変だ。

一発で正解なんか、導き出せない。

間違うこともあるし、間違っていなくても、見えていなかった要素が見えてきて、修正する必要が出てきたり、する。

大変にまどろっこしい。

恐らく結論なんか出ないから、ずーっと考え続けなければならない。

面倒で、しんどいことだ。


でも、そうやって、常に《自分の考え》を軸にして、様々な考えや言葉に接して行くことで、《自分の考え》は磨かれてゆく。

《自分の考え》を磨いてゆくには、こころを開いて、多くの考えや言葉に触れる必要がある。

『今の自分』にとって聞き慣れた言葉や心地良い考えにだけ取り巻かれていては、それは出来ないだろう。


羽生選手は言う。

『哲学って、いろんなことを考えていくし、いろんなことをみんなで問いを出しながら、対話していくんだけれども、結局わからないことが増えていく。 

でもそれってすごく、普通にあんまり哲学することを考えていない人たちからしたら、分からないことが増えていって、すごく怖いことだし、嫌なことかもしれない。でも、それがどれだけ素晴らしいことか、「水中の哲学者たち」を読んでいてすごく思っていて。 』


ここも、深く共感するところだ。

『わからないことが増えていく』ことは、つまり自分の世界が広がってゆく、ということなのではないのかな、と思う。

狭い池の中にいたのに、広い大海原に漕ぎ出してゆくような感覚ではないだろうか?

最新のナビもなしに、ただ小さな羅針盤(古いな!)だけを持って。

永井さんは、『水中に深く潜る』と表現されている。

広い大海原に漕ぎ出してゆく、というのが、どこかに目的地がある感覚だとすると、『水中に潜る』方がぴったりするかもしれないけれど。


実はこの、『結論が出ない、様々な考えの中で揺れること、揺れながら考え続けること』が、今、とても大切なことだと思っていて、羽生選手もそんな風に考えているのだろう、と思う。


(NHK『100分de名著』のアトウッドの《誓願》の回で、伊集院 光氏も同じような事を述べていた。)


そう考えると、彼がEchoesを、ーー私はREPRAYでもそうだったと思うのだがーー何故あの様なものにしたか、わかる気がする。


通常のエンターテイメントのショーならば、ストーリーは明確で、そしてある意味では完結する。その中で問題提起され、観客は意図されたその問題について、感情を揺さぶられ、考えることになる。が、彼のアイスストーリーはそうではなかった。

彼のアイスストーリーでは、観客は『自ら思考すること』その事自体を促されたのではないだろうか?

細部はぼかされていて、様々な可能性を含んでいた。そして、投げかけられる問いは、とても形而上学的なものだった。

だからこそ、私達は観た後、ずっと思考を巡らせ続けたと思う。


REPRAYを観た当初、私は迂闊にも、それは羽生選手がエンターテイメントのストーリーというものに不慣れなせいかと思っていた。

ここにきてやっと、初めから彼はそれを狙っていたのだ、と気づいた。


またしても、彼は私の固定観念をぶち壊したのだ。

本当に、とんでもない人だ。

そしてーー

観客を、なんと信頼していることか。


最初に採り上げた、『世界をよくしてゆく為には考えることが必要』と述べた所で、羽生選手は次のように続けている。

『それを何万人という方に届けられる、とりあえず僕は媒体として届けられる存在ではあるから、それをいろんな知識を得た上で書きたいなと思っていて。 』


彼がストーリーとして観客に届けたかったことの大きな柱として、それがあったということ。

その事に、今更ながら、深い敬意を捧げたい。


今の日本の、そして世界の様々な問題は、そんなに簡単に解決するものではないだろう。

本当は、色んな考えや立場の人達が、ああでもない、こうでもないと、考え合い、こころを開いて話し合う中からでしか、解決は見えてこないのではないかと思う。

それがたとえ絵空事のように思えても、それしか無いように、私には思える。

言葉の強さや国の強さで力ずくで押し切ろうとすることは、決して解決には繋がらない。

そして最終的には政治が行うことでも、その後押しをするのは私達一人一人であるはずだ。


私のこのような考えも、わたしの《現在地》とでもいうべきもので、私は様々な考えの間で揺れるかもしれない。

けれど、そうやって揺れながら、考え続けることが、きっと大切なのだ。


だから私は、様々な事を、揺れながら考え続けてゆきたいと思う。


羽生選手と永井さんとの『哲学対話』。次回が楽しみだ。