政治と芸術 | しょこらぁでのひとりごと

しょこらぁでのひとりごと

羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。



 皆さんは、今政府が大変危険な法案を次々に通そうとしていることを、ご存知だろうか?


 つい先日、『改正個人情報保護法』案が衆院を通ってしまった。これは『保護』法案と名前は付いているが、実際には『保護しない』ための法案だ。

今私達の情報ーー例えばXでの発言とか、病院での治療歴とか、銀行の預金口座とか、全てデータ化されている。そういうデータを全て政府の元で一本化し、企業がそれを利用出来るようにする、という法案だ。

AIの開発に必要だからという。

しかし、AIが必要なのはあくまでデータであり、個人を特定する必要は全く無い。

だから、イギリスなどでは個人名などを暗号化して提供している。

ところが、政府はそれを、個人名も住所も、暗号化せずに提供するという。

私は、これはあってはならないことだと思う。

企業が新入社員を募集する際、その病歴や信条によって選別したら、どうなるのか?

例えば性被害にあった女性が、被害届けを出したら?

考えられ得る危険性があまりにも高すぎる。





にもかかわらず、テレビでは殆ど採り上げない。

知らない人も多いのではないだろうか。


これは実はほんの一例に過ぎない。

本当に無茶苦茶な法案が次々と数の暴力で通されている。

今、国会で行われていることを、本当にみんながちゃんと知る必要があると、私は強く思っている。


こういうことを書くと、『羽生選手のファンブログに政治のことを書くな!』という人が現れるだろうと思う。

しかし、アーティストの活動というのは、時の政府の影響を強く受けざるを得ないものだ。


みなさんは、アーティストがこれまでの歴史の中で、どれだけ政治に翻弄されてきたか、考えたことがあるだろうか?


クラシック界で言えば、その代表格はショパンだろう。

彼が故郷を愛しながら、故郷に戻れないまま異国の地で生涯を終えたことは有名な話だ。


近年の世界のクラシック界だけを見てもーーそして今に名前の残る作曲家や演奏家だけでも、挙げる名前には事欠かない。

近年で特に多いのは、第二次世界大戦とソ連にかかわる事例だ。


ナチス下のドイツでは、ワーグナーの作品が、ナチスの掲げるゲルマン至上主義の象徴として、利用された。

20世紀を代表する指揮者であったドイツのブルーノ・ワルターはユダヤ人であったため、迫害を受け、ナチ宣伝相のゲッベルスによる殺人予告、果ては楽屋に銃弾を打ち込まれてドイツでの演奏活動が出来なくなった。そこからウィーン、スイス等へと次々と移住を余儀なくされ、最終的にはアメリカに亡命した。

フルトヴェングラーはベルリンフィルと音楽を守るためにドイツに残った。実際、政府が団員のユダヤ人を辞めさせるように迫った時、断固としてそれを拒否したり、ユダヤ系の多くの演奏家や作曲家をナチスに対して庇護したり擁護した。しかし戦後は、ナチスに協力した罪に問われることになった。音楽家たちはそれに対して、フルトヴェングラーを擁護した。もし彼らが擁護しなければ、フルトヴェングラーは指揮棒を折らざるを得なかったかもしれない。

ナチス下では、『軟弱だ』として、ショパンの演奏は禁止された。

ハンガリーの国民的作曲家、バルトークも、折に触れかけられる政府の圧力に嫌気がさして、アメリカに移住した。彼はあれほど故郷を愛していたのに。


ソ連では多くの演奏家がアメリカに亡命した。ホロヴィッツもその一人だ。

有名なチェリストであったロストロ・ポーヴィッチは、ソルジェニーツィンを擁護したため当局に睨まれ、演奏活動が出来なかった時期がある。彼も後にアメリカに亡命した。

ショスタコーヴィッチはソ連に残り、政府とうまく付き合ったように見えるが、そうではなかったと、作品からその葛藤を読み取る研究者もいる。

彼の曲は確かにある意味無機質な面を感じさせると、私は思っているし、それが彼の特徴であり、好きなところでもあるのだが、もし、彼がもっと自由な環境で作曲活動をしていたら、どんな作品になったのか、見てみたかった気もする。彼は真相を墓場まで持って行ってしまったので、本当のところは分からない。

スターリンの時代には、恐らく数多くの演奏家が当局の許可を得られず、世界に知られること無く終わった人も多いと思われる。

亡命出来たホロヴィッツやロストロ・ポーヴィッチは、当局から国外で活動を許された演奏家だったから可能だったので。


芸術家、アーティストというのは、本当に政治によって、簡単に方向を曲げられたり、活動の場を無くしてしまったりする存在なのだ。自身が望むと望まないに係わらず。


今の日本では、そんなことは起きない、と言う人もいるかもしれない。

それはナチスとか、共産主義国での話でしょう?と言うだろうか?

先の戦争中の日本では、芸術家は戦争礼賛に協力しなければ、作品発表の機会は無かった。

それも、戦争中の話でしょ、と言うだろうか?


では、何故『今の日本では、そんなことは起きない』と思うのだろうか?


それは日本が、民主主義国であり、個人の自由、尊厳が尊重される国であるはずだからだ。


今の政府も、そう考えているだろうか?

民主主義や個人の自由、尊厳を尊重するだろうか?

それなら、何故先に上げたような個人情報を企業に勝手に提供出来るような法律を作るのか?


少なくとも今現在、政府が次々と出している法案やその手法をみる限り、その気はさらさらないと思わざるを得ない。


しかし、真のアーティストにとって一番必要なものは、自由と尊厳なのだ。

だから多くの有名な作曲家や演奏家は亡命したのだ。

自由と尊厳こそが芸術活動の源だ。

あなたは音楽を聴くとき、心が解放されていると感じていないだろうか?

素晴らしい絵画を前にして、その尊厳にうたれた経験は無いだろうか?

それは、そのアーティストが、自由と尊厳をーー無意識のうちにさえーー求めて創作しているからに他ならないと、私は思っている。


私は、羽生選手のスケートを見ているときも、心の解放と彼の尊厳を感じる。

彼の尊厳、というのは少し違うかもしれない。

人間という存在そのものの尊厳を感じる、というべきかもしれない。だから、私は感動するのだ。


私は羽生選手の、苛烈なほどフィギュアスケートに全てを賭ける姿勢を、畏怖の念を以て尊敬している。

だからこそ、その彼から、自由と尊厳を奪うような結果を引き起こしかねないような政治には、断固として反対する。


羽生選手自身がどう考えているか、ということではない。『私が』我慢できないからだ、ファンとして。


羽生選手のファン全員が私のように考えるべきだ、とは思っていない。しかし、同時に、私がこのように考えることをやめさせることも、出来ない筈だ。


今の政治が、私たちから何を奪おうとしているか、多くの方によく考えてみて欲しいと思う。


私は、notteやREALIVEについて、書きたいと思ってきた。しかし、今の状況に危機感を持ちながら、それを出さずに彼のスケートについて語ることは出来なかった。それは恐らく、私だけではないだろうと思う。