今回の《Echoes of Life》の主題が
究極、一言で言うならば『私は何者なのか』
という問いであることは、恐らく多くの方に同意いただけるのではないだろうか。
今日は、アイスストーリーからは少し逸れるが、この主題の重要性について考えを巡らせたい。
今日、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
兵庫県の百条委員会の先のメンバーであり、毎日膨大な数の誹謗中傷、家族への脅しなどにより県議を辞任していた竹内英明氏が亡くなった、というものだ。
これに対して立花氏がTwitter(X)上で、竹内氏が県警によって事情聴取をうけており、逮捕を恐れての自殺であったと断定する内容を流した。
対して兵庫県警本部長は、竹内氏に事情聴取を行ったことは全く無く、明らかな虚偽がX上で拡散されていることは誠に遺憾である、と県議会警察常任委員会で公式に答弁した。
竹内氏は自死と見られるとのことだが、その真実の原因はまだ明らかではないので、ここで断定して述べることは控えようと思う。しかし、少なくとも、選挙で正当に選ばれた議員が根拠のない誹謗中傷によってーー家族への被害の大きさも危惧しーー辞職を余儀なくされたことは事実である。
そしてその氏の逝去に際し、立花氏が事実でないデマを流したこと。それを信じる人がいることも。
SNS上では県警を信じるか、立花氏を信じるか、などという荒唐無稽な事を言う人がいるようだが、立花氏がこのことについて、信用するに足る根拠を何ら示していないのに、何故彼を信じられるのか、私には理解出来ない。
公式の見解に異論を唱えるなら、しかもそれが故人の尊厳に関わることならば、厳然とした証拠を示すのは当然のことだ。それは人として守るべき倫理ーー《道》というものだろう。
私はこの状況に、かつて哲学者ユヴァル・ハマリ氏が述べた、『SNSは民主主義を破壊する』という言葉を、実感をもって思い出さざるを得なかった。
今までも、SNS上の誹謗中傷が原因となって自死に追い込まれた人々が、いた。
そのことに対する有効な歯止めがないままに、とうとう事態は実際に民主主義を破壊し始めるところまで来てしまった。
アメリカでは、議会襲撃という信じられない暴挙によりそれが既に明らかだったのだが、日本ではそれは遠い話だどこかでと思っていた。
それが目の前に現れた衝撃。
この竹内氏の自死の原因を可能であればはっきりさせ、再発防止の為の有効な手段を構築しない限り、ここから全てがガラガラと音を立てて崩れ落ちてゆくのではないかという危機感を覚えている。
再発防止策の構築については有識者と政府の仕事であるとしても、まずは我々一人一人が、この混沌とした世界の中で、どのように対処してゆけばよいのか。
私はハラリ氏の言葉を全て無条件に受け容れる訳ではないが、彼がインタビューで語った言葉は、とても大切なことではないかと思った。
以下、2018年のNHKのインタビューより。
『今やわれわれはハッキングされる動物です。アマゾンやグーグル、中国政府やアメリカ政府はハッキングに必要な膨大なバイオテクノロジーとコンピューターの知識を蓄積しています。自分自身をよりよく知る努力をしなければ、彼らがあなたの選択を予測するだけでなく、欲望も操作されてしまうのです。一番重要なことは自分自身を知ることだと思います。自分が何者であるのかを理解することです。あなたの心はどんな声を発していますか。あなた以外にあなたのことを理解できる人は誰もいません。他の誰もあなたの頭の中をのぞいて見ることはできないのです』
要するに、大きな権力や情報プロバイダー、その他によって、我々の選択は予想され、誘導され、操作され得るということ。
現に私たちは、SNS上に溢れる情報に、揺さぶられ続けているではないか?
そんな中で最も重要なことは、《自分が何者であるかを理解すること》だと、彼は言うのだ。
今回のEchoesで、羽生選手はNovaの設定を詳細に作り込んだ、と語っていた。しかし、それを全て面に出すことはしない、受け取る側に委ねたい、そして、観客一人一人に、自分自身の《問い》の答えを考えてもらいたい、と。
ハマリ氏が言うように、この《問い》の答えは、他の人には導き出せないもの。あなた自身、私自身にしか見つけ出せないものだ。
羽生選手がEchoesのストーリーを書いたとき、このようなことを念頭に置いていたかどうかはわからない。
しかし、彼がEchoesを通して私たちに提起した《問い》は、今この時、本当に大事なことなのだと、改めて思う。
Echoesは、色んな面から見ることが出来る。
純粋に彼の演技を味わうのも、ストーリーを深く掘り下げるのも、素晴らしいことだと思う。
それと同時に、是非一人でも多くの方にーー私も含めてーーこの《問い》を自分に宛てたものとして考えていただきたいと思う。
答えは直ぐには見つからない。
前にも書いたように、ずっと追い求めて行かなければいけないものだろう。
それでも、自分自身と正面から向き合う、それだけでも、色んなことが少し変わるのではないだろうか。
あなたが考えていると思っていることは、本当に《あなた》が考えているのか?
少なくとも、この溢れかえる情報の中で、自分の足で立とうとする努力が生まれるのではないだろうか。
そのバタフライの羽ばたきが、希望の光芒となる可能性を、私は信じたいと思う。