義父は少し状態が落ち着き、一般病棟に移ることができた。今後どう推移するかはまだわからないけれど、取り敢えずほっとした。
ご心配下さった皆様、ありがとうございました。
さて、少し落ち着いたところで、RE PRAYの考察を続けたいと思う。(注:今回多少のゲームのネタバレを含みます。)
今回書こうと思うのは、この物語に込められたメッセージについてだ。
このところ、一部で、とても攻撃的なファンの発信が目立つように感じている。
もしその人たちが羽生君のファンを名乗るのならば、彼自らがこのストーリーに込めた意味を、しっかりと振り返る責務があるだろうと、私は思う。
細部の解釈については、私にはまだよくわからない所があるのだが、全体を通しての主題について。これははっきりしているだろう。
前半の『RE PLAY』について。
ここにも『RE』が付いているのは、最初にアクセスするデータの日付から、この日二回目のPLAYだからだとわかる。
友人から教えてもらったのだが(私自身はゲームはしないので)アンダーテイルでは、Gルート(虐殺ルート)に進むためにはまずNルート(ニュートラルルート)をクリアしなければいけないそうだ。つまり、この日アクセスしたデータは、Nルートをクリアしたデータだということになる。
プレイヤーはNルートをクリアし、Gルートがどのようなものか、興味をもってクリアに挑もうとしている。前に進むこと、ゲームをクリアし、未知のGルートを知りたいという好奇心で始めたことだろう。
物語の初め、プレイヤーは既に『激流に呑まれていた』状態。
Gルートは、全てのモンスターを倒さなければならないルートだ。
言い換えれば、全てのモンスターを攻撃し、殺さなくてはならないということだ。
このルートに乗ってしまった以上、そうしなければクリア出来ない。
プレイヤーは途中で疑問を持つ。
岩が落ちてくる広間で。
でも、もう引き返せなくなっている。
ここが意味することは何だろうか?
攻撃し、相手を倒すという目的で一度動き始めてしまったら、引き返せなくなる、ということだろう。
攻撃し続け、倒し続けるしかなくなる。
プレイヤーは前に進み続けるしかない。
そして、進みつづけた結果、
破滅へと至ることになる。
自らの手で、全てを破壊するのだ。
最後は敵も味方も全てを。
先に、保存されていたデータはNルートをクリアしたデータだと書いたが、本当はもう一つ、可能性がある。
Nルートはその前にクリアされていて、実はこれがPルート(平和主義のルート)のデータだという可能性だ。
もしそうなら、プレイヤーが殺してきたモンスター達は、Pルートで友達となったモンスター達なのだ。
何があるのか、好奇心で選択したルートで、前に進むためには、その彼らを攻撃し、殺さなくてはならなかった。
ただのゲームのはずだったが、それは、プレイヤーをーー若しくはキャラクターを、追いつめてゆく。
その結果、最後のキャラクターは、最後の勝利によってすべてを破滅させることになる。
羽生選手の言葉を思い出して欲しい。
プレイヤーは皆さんです、という言葉を。
現実世界は、ゲームではないから、攻撃によって相手に与えた傷は、消えない。やり直すことも勿論出来ない。攻撃したという事実も消えない。
だから現実世界では、ゲーム感覚で誰かに攻撃を仕掛けるようなことはないだろう、、、、
本当にそうだろうか?
SNSの恐ろしさは、そこに潜んでいるのではないのか。
自身、真剣に怒り、それ故に攻撃したとしても、
自分が見ているのはこちら側からだけであって、
ーーつまり、相手は倒すべきモンスター、という見方だーーモンスターとされた側から見れば、全く逆の視点が存在する。
その相手と、現実世界で1対1で向き合ったなら絶対に働くはずのブレーキが、SNSの世界では放棄されている。
相手を単なる『倒すべきモンスター』と認識することが、容易になる。
まるで記号化された相手であるかのように。
週刊誌が、この攻撃ゲームをやっていることは明白だ。
しかし、やっているのは週刊誌だけだろうか?
RE PRAYに戻ろう。
攻撃し続けたキャラクターは、最後の敵を倒し、ゲームをクリアする。
しかし、データはセーブされなかった。
完全なる空虚。
このデータがセーブされたなら、もしこの後Pルートーーつまり、誰も殺さなくていいルートを選んだとしても、結末が完全なハッピーエンドとはならないのだそうだ。
だから、このデータはセーブされてはならなかった。
そのためには、ここまで注いできた苦労も、情熱も、犠牲も、全てが無にならねばならなかったのだ。希望へと続くためには。
そして後半になる。
少し話が逸れるが、今、ファンの中で様々な攻撃を仕掛けている人たちは、彼のここでのレクイエムをどんな風に感じて観たのか。
あれは、震災によって失われた命に向けてだけのものではない、と私は思う。
あそこにある一つ一つの灯籠の灯りは、
一つ一つの命だ。
どれ一つとして、誰かの暴力のために失われたり傷つけられて良い命は無かった。
戦争でも、言葉の暴力によっても。
彼はそれを伝えてきたのではなかったか。
あの演技に本当に感動したのなら、
何故、本人が見たら心がズタズタになるような言葉をSNSに載せることが出来るのか。
元に戻ろう。
私が第3のルートが存在するのではないか、と以前考えたのは、この後半が、先に書いた『完全なハッピーエンド』に思えなかったからだ。
この後半は、アンダーテイルからは離れ、羽生選手自身の創作になる、と言い切って良いだろうと思う。
彼が考えたハッピーエンドは、
『祈る』ことだった。
攻撃によりモンスターを倒すことではなく、また
Pルートのようにみんなで仲良くすることでもなく。
本当は、この終わり部分では、完全なハッピーエンドには到達していない、と思う。
しかし、完全なハッピーエンドは、もしあるとすれば、この『祈り』の先にしかないのだ、と彼が考えていることは明白だろう。
我々人間を真の幸福に導くことが出来るのは、攻撃する事ではなく、『祈る』ことだけだと。そこからしか、一人一人が真に自由で、尊重しあい、希望に満ちた世界は実現しないと。
この後半最後の部分の前に、プレイヤーはゲームの前から去る。
その後の画面の羽生選手は、果たしてプレイヤーなのか、それともキャラクターなのだろうか。
もしプレイヤーならば、あの空の下で祈るのは観ている私達一人一人ということになる。
もしキャラクターならば、羽生選手自身なのか。
そうだとすれば、、、、、
そこには我々は存在していない。
いずれにせよ、そこに居るのはただ一人なのだ。
そこに一人で立ち、希望へのための祈りをーー
未来を信じ、夢を大切に歩んでゆくと宣言するのは、誰なのか。
もしかしたら。
あの空の下で祈るのは、この公演に携わった全ての人なのかもしれない。
羽生選手も含めて。
羽生選手は、そのキャラクター設定ーーファンが見ている羽生選手像も全てーーを取り去った、あるがままの羽生結弦という個人で、あそこに立っているのではないか。
そして、我々一人一人も、
自分の作り上げた羽生選手と共に、ではなく
ーーすなわち、キャラクターに支配されることのない、ただ一人の個人として
あそこに立つべきなのではないか。
そうして、孤独な一個人として
しかし、しっかり自分の足で立って
祈る。
私達一人一人が、その人物であろうとすること。
それこそが、羽生選手の願いなのかもしれないと思う。
私がソチオリンピックを観て羽生選手に《はまった》時、恐らく皆さんがそうだったように、彼の動画を漁って回った。そしてやがてブログやツイッターに行き着き、そこで初めて自分と同じ、彼のファンの世界に出会った。
そこで同じファンの方と繋がることが出来たときの、あの初めて味わう喜びを私は忘れられない。
SNSは、『繋ぐ』というーー今までなら決して出会うことのない人との素晴らしい出会いを可能にする、夢のようなツールだと思う。
しかし、先に書いたように、使い方一つで、凶器にも成りうる。その力を、攻撃や煽動に使った場合、その威力は発信者の思惑さえ簡単に超えうる。そして走り出したら止まらない。
このSNSを繋ぐ為に使うか、破壊するために使うのか、、、、、凶器にしないために、一人一人が誰かに任せるのではなく、自分自身で考え、祈り、しっかりと独りで立つことがとても大切なのだと思う。繰り返しになるけれど、RE PRAYの終わり方は、それを暗示しているように感じる。
これを読んでくださった皆さんが、今一度自分とSNSの関係を振り返る切っ掛けになってくれたら、と望んでやまない。
自戒も込めて。
※コメント大歓迎ですが、反論については、冷静かつ論理的で、議論するに足ると判断したもののみを承認致しますのであしからずご了承ください。