記事を書かないままに、こちらでは、桜が咲き、散ってしまった。
羽生選手以外のフィギュアスケートには何の興味も湧かず、世界選手権も見なかった。
ロシアのウクライナへの侵略、収まる気配のないコロナ禍、、、
それでも桜はいつもの春と同じように咲き、
散ってゆく。
少し前になるが、『芸術を見たければアイスダンスを見ればいい』という言葉を見かけた。
最初、ラファの言葉として紹介されていたようだが、2018年のネイサン選手のインタビューでの言葉だという指摘があったようだ。
私にとっては、誰がいつ言った言葉か、はあまり重要ではないので、ここではそのことは置いておく。
ただ、この言葉で、私は自分が一時期、アイスダンスとペアを熱心に見ていたのを思い出した。
もう随分昔のことだ。
以前にも書いたが、私はオリンピックや世界選手権など、テレビで放送されるときだけちら見する、緩いファンだった。
まだ日本の選手が上位からは程遠い所にいた頃のことだ。
それまでは何となくシングル中心に観ていたのだが、あるオリンピックの時、アイスダンスを観て、とても惹かれた。
勿論、音楽の重要性がシングルより各段に大きかったからだ。スケーティングと音楽との一体性、『音楽そのものの持つ』世界観の表現。
アクロバティックでは無いが、素晴らしく魅力的だった。
特に、ある組の演技に興奮し、感激した。
私は自分が『何を観ているのか』を忘れ、
ただただその世界に惹き込まれていた。
その組はトーヴィル・ディーン組という名前だった。
一方、ペアも、その時たまたま観たのだったと思うが、そのダイナミックさにびっくりした。
アイスショーで群舞のペアの演技のダイナミックさを覚えているファンも多いのではないかと思う。
スリリングで、ダイナミックで、しかも美しかった。
私が惹かれたそのペアは、女性がロドニナという名前だった。
その次のオリンピックの、ゴルデーワ選手の組の演技もかすかに覚えている。
凄い組が出てきた!と思った。
それらを観てからシングルを観ると、残念ながら私には魅力が薄く感じられた。
女子は世界観や美しさが追求されていたが、ジャンプが小さくて、それなのにそのジャンプのために、長い助走があり、興醒めした。
カタリーナ・ヴィット選手の演技には惹かれたが、でも、やはりジャンプは邪魔だった。
男子は、ジャンプは美しくないがダイナミックで、スケーティングにもスピードがあったのだが、それだけに思えた。やはりジャンプの前の助走が長かったのだが、それさえあまり感じないほど、殆どの選手が、ジャンプを跳ぶ以外の中身に魅力が無いように私には感じられた。身体が固いような、ぎこちなさを感じる選手も多かった。
勿論、中にはそうでない選手もいたかもしれない。それほど熱心に観ていたわけではないので、上位の選手しか観なかったし、そこまでの興味も湧かなかった。
だから、その時期は、ダンスとペアを中心に観ていた。
昔のことだ。
やがて日本の選手が上位に出てくるようになり、
またシングルを中心に観るようになった。
けれども、日本人選手が活躍するから応援するし、ジャンプが決まれば嬉しかったのだけれど、助走の部分がどうしても苦痛だった。
音楽を中断してしまうジャンプの助走、、、、
あまり美しいとは言えないジャンプたち。
もう、これはシングルフィギュアスケートにあっては仕方ないことだと割り切るしかない、と思って一生懸命応援していた。
でも、どこかでいつも思っていたのだ。
フィギュアスケートの醍醐味は、本当はアイスダンスとペアにあるのではないかと。
その事を、冒頭の言葉は私に思い出させた。
そしてもし、シングルのスポーツとしての側面だけを言うならば、そしてそれがジャンプのみで表されるべきものであるとするならば、女子は伊藤みどり選手、男子はボーヤン・ジン選手が称賛されるべきだろう。そこには、今回のオリンピックメダリストの名前は入らないと私は思う。
そうならないのは、それだけではないと、皆思っているからだろう。
芸術としてはアイスダンスが、スポーツの持つダイナミックさという点ではペアが、シングルに勝るとしたら、シングル競技が目指すべき所はどこになるのか?
勿論、その間にシングルの素晴らしい演技が数々あったことはわかっている。
けれども、それらも踏まえた上で、私は断言するのだ。
私にとって、その答えが羽生選手だった。
彼の演技を2013年の全日本で観たときの驚きを、昨日のことのように思い出す。
あの時、私は初めて、ジャンプを『美しい』と感じたのだ。
彼の四回転トゥループは、ふわりと舞い上がるのに、高さも幅もあって、軸も細く、回転は早く、着氷の姿勢も美しくて、その後の流れもスピードが落ちなかった。
それまで私にとって邪魔だったジャンプが、素晴らしい魅力あるものとなって目の前に現れた感動は、忘れられない。
彼のスケートは独特だ。
女子選手の持つ美しさーー手の表現や、スピンの美しさーーと、男子選手の持つダイナミックさ、そして総てを一つの線で繋いでゆく自在のスケーティング。
一瞬も音楽と離れることなく紡がれる世界観、そしてそこに込められる、一人の人としての迸る感情。
そして音楽とその世界観に組み込まれるジャンプは、不意に跳ばれるのだ。
これこそが、シングルフィギュアスケートの目指すべき道だと思った。
そして、それは今、最高のレベルに到達している。
それなのに。
ISUは再び私の大嫌いな、美しくもなく、ダイナミックでもなく、長い助走のジャンプに再び高い評価を与え続けている。
冒頭の言葉は、誰が言ったにせよ、フィギュアスケートを『外から』見たときの魅力について、考えたことのない人の言葉だと思う。
ところで、クラシックのCDには、名盤と呼ばれるものが存在する。
時代を超えて、ファンに聴かれ続けている演奏だ。
リパッティの最後のシューマンのピアノコンチェルト。
ホロヴィッツのライトナーとのラフマニノフの三番、カザルスのバッハ無伴奏組曲、デュプレのエルガーのチェロ協奏曲、フルトヴェングラーのバイロイトにおける第九、ベームの東京でのブラームスの第一番。。。
挙げればキリがないのだが。
それらの演奏は、時代が変わってもその輝きを失うことはない。そして、それらがあるからこそ、私は『今』の演奏者の演奏を『楽しむ』ことが出来る。
それらの素晴らしい演奏の揺るぎない評価がほぼ共通の認識として根底にあると思うからこそ、『今』の演奏を楽しんで聴くことが出来るのだ。
それらの多くは、私はリアルタイムで接することが出来なかったものだが、録音であっても、それらに触れることが出来ることは、私の音楽の世界を豊かにしてくれる。
残念ながら、フィギュアスケートにはそういう側面が極めて少ない。
ドーヴィル・ディーン組の演技も、ロドニナやゴルデーワ選手の演技も、繰り返し観るフィギュアスケートファンがどれくらいいるだろう?
私は、羽生選手の全演技のブルーレイを出して欲しいと切に願う。
そうしたら、私は満足して、それを持って穴蔵へ潜り込み、試合だろうとアイスショーだろうと、彼の出るときだけ這い出して観に行く。
フィギュアスケート界が羽生選手の演技を、今後シングル競技の有るべき演技の指標として指し示さないのであれば、私は『今』の他の選手の演技を楽しむことは出来ない。
価値観の根本的相違は苦痛になるだけだ。
ISUの目論見通り、アメリカでの人気は少し復活したようだし、日本のアイスショーもそれなりにお客は入っているようだ。
こうして、フィギュアスケート界はまた同じ事ーー場当たり的なルール変更と、その不透明な運用ーーを繰り返して、続いてゆくのだろうと思う。
もし根本的に変わるとしても、羽生選手がそこにいないならば、競技を観る気はもう無い。
ただ、私は田中さんが言ったように
彼が決めたことにはついて行く。
その結果、フィギュアスケート界とまだまだ付き合わなくてはならなくなるかもしれないけど、、、。
風に散る桜を見ながら、私はそんなことを考えていた。