分析し、検証すること | しょこらぁでのひとりごと

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羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。

 賞賛の嵐の後には、必ずそれを貶めたい輩が動き出す。
世の習いとはいえ、本当にしょうもないことだと思う。

羽生選手のオリンピックでの振る舞いについて、色々な事が言われていることもあるようだが、余りに馬鹿馬鹿しいことが多く、きちんとした反論が出ていることについては、今はここでは採り上げない。

私は、彼がSPで嵌まった穴を確認しに行ったことについて、書きたい。


自分のミスについて、『何故起こったのか』を検証することが、同じミスを繰り返さないために必須であることは当然だ。

羽生選手が凄いのは、例えそれが自分のせいではなくて、今回のように不可避のことであっても、繰り返さないようにしてきたところだ。

普通なら仕方なかった、で済ませてしまうことを、
彼は『仕方なかった』では済ませずに、同じシチュエーションを避けるために、徹底的に検証してきていると思う。

それは、私達から見えないバックヤードで起こったことも有るだろうと思う。
(2016年の世界選手権でおかしな事があったことは、ファンなら記憶しているところだと思う。)

怪我についても、ギリギリの挑戦をする以上、100パーセントの回避は不可能だが、それまでの怪我につながった状況を検証し、回避できる怪我は回避してきていると思う。
そうでなければ、こんなに長い間、しかもジャンプ構成を上げ続けて現役を続けることは出来ない。

そういう羽生選手だからこそ、穴の確認に行ったと私は考えている。
不可避に見えることでも、本当に不可避なのか、その時に確認しておかなければ検証出来ない。

そしてその羽生選手の姿勢は、私にとって、とても大切な事なのだ。
だから、この彼の姿勢を批判されることは、私には看過出来ない。



私がクラリネットを仕事にしていることは、このブログを読みに来て下さっている方はご存知だと思う。

実は、私は羽生選手を知る随分前に、歯の治療をした。
クラリネット奏者にとって、とてもデリケートな
前歯の治療だった。
影響はトランペットほどではないと思い、やってもらったのだったが、全く吹き方がおかしくなってしまった。

私は以前の吹き方に戻そうと、色々試みたが、どうしてもうまくいかなかった。
歯を元の状態に戻そうと試みたりもしたが、
どんどん底なし沼にはまっていくように、悪くなっていった。

私は手当たり次第に、既存の奏法をあれこれと試してみた。
一時良くなったと感じることもあったが、すぐ壁にぶつかった。

そんな時、羽生選手に出会ったのだった。

彼を見続けているうちに、彼のジャンプの成功率がこれほど高いのは、才能に恵まれているだけではないことがわかった。

フィギュアスケートのジャンプには、確立されたメソッドが無い。

羽生選手は、試合で実施した要素、特にジャンプについて、緻密に記録し、そこから自分の練習を組み立て続けて、ジャンプの成功率を上げてきたと、ソチの後で知った。
そうやって、彼は、自分のメソッドを確立してきたのだと。

実は、クラリネットの奏法にも、確立されたメソッドが無い。
肝心の口の中のことは、しっかり解明されていないことが多いし、一人一人の歯並びや顎の骨格によっても実際は異なるからだ。

彼を見ているうちに、私は、私の『現在の状態』に合う奏法を見つけなければいけないのだと気づいた。

そこから私は、奏法について書かれた教則本を読み漁り、YouTubeにアップされた動画も参考にして、一つ一つの要素を分解して試してみるようになった。
歯を置く位置、口回りの筋肉の使い方、舌の位置、息の方向、、、一つ一つの要素に、様々な方法があり、それらを無数に組み合わせていかなければならない。

その中の、たった一つ、私に合った奏法を見つけるのは、気の遠くなるような作業だと思った。
それでも、彼がやってきたことに比べれば、それくらいは可能だと、私は思うことが出来た。


そして、少しずつ状態は良くなってゆき、何とか沼から完全に脱出出来たと思えたのは、最近のことだ。
それは、既存の教則本には絶対に書かれない、私自身の顎と歯の状態に合わせたものでなければならなかったのだ。


彼が、ジャンプ一つにしても、様々な要素を分析し、組み合わせて自分のメソッドを確立してきたことが、私を底なし沼から救ってくれたのだ。

だから、言いたい。

徹底的に自分の演技を分析すること。
それがどれほど大切で、大変なことか。


彼が穴を確認したことを批判する人は、
彼にとってのその行為の意味を理解していない。

そういう分析をし、次に活かすことは、実は他の分野でもとても大切なことの筈だ。それは、アスリートや演奏家に限らないと思う。

その背景をよく知らないのに、自分の目線からだけ見て批判することは、実に恥ずかしいことだ。
もし、知っていながら批判する人がいるならば、ーーそこにあるのは悪意ということに他ならない。