ネイサンのインタビューを巡って | しょこらぁでのひとりごと

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羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。

 ネイサンのインタビューが色々と物議を醸しているようだ。
本当はGPF、そして全日本について、自分のために、書いておこうと思っていたのだけれど、
中々気持ちを整理しきれなくてぐずぐずしているうちに、先にこちらを書くことになってしまった。
 実際このインタビューを読んだとき、私は非常に好感を持った。
ネイサンが、とても素直に、飾らずに
現在の自分の気持ちについて、語っていると思ったから。
だから、これについて反感や、逆に賛美やら、が出現するとは思いもしなかったのだ。

反感の主なものは、イェール大学では羽生選手のことも殆どの学生が知らない、と言ったこと、そして、スケートだけが人生の全てではない、と言ったことの二点に対するもののようなので、この二点について、考えてみたい。
まず一点目については、ネイサンは事実を述べただけで、羽生選手を下げる為に言ったのではないことは、前後を読めば明白だと思う。それが何故非難されるのか、私には理解出来ない。
彼が言っているのは、「あの羽生選手でさえ」知られていない、ということで、つまり、他のフィギュアスケートの選手は推して知るべし、ということだ。つまり、フィギュアスケートというものが殆ど認知されていない、ということの具体的例として名前が出てきただけで、それが羽生選手を下げると捉えるのはあまりにも無理があると思う。
実際アメリカでの現在のフィギュアスケートの不人気なのは、アイスショーの入りを見ても明らかだ。
しかし、これに関して、私は、単に有力選手がいなかったから、とは思わない。
有力選手が出なかったのは、競技人口が減ったからだと思うし、その原因は、アメリカでのフィギュアスケートが、あまりにもスキャンダルが多かった為ではないのかと思っている。
その点の反省なくして、有力選手を売り込めば、という姿勢のアメリカのスケート連盟については、私は怒りを禁じ得ない。が、それはネイサンのせいではない。
 そして、二つ目の、スケートだけが全てではない、という発言について。
平昌のときに、ネイサンがSPで、4Fと4Lutzを入れる、とラファに通告した、という、ラファの発言を思い出した。
ネイサンは、親戚などから、そうするように言われ、今まで世話になってきた立場から、それを拒否するのは難しかったろう、というようなラファの発言のニュアンスだったと覚えている。(もし違っていたら、教えていただきたい)
日本では少し考えにくいことだけれど、中国系アメリカ人としてのコミュニティーは、私達とは事情が異なっていると思うのだ。彼らはコミュニティーとして、身内の才能を、金銭面でも応援するだろう。その才能を世界に出すことは、コミュニティーの地位を上げることにつながるという意識なのではないかと思う。
ラファの発言が正しければ、ネイサンは、恐らく、コミュニティーのそのような期待を背負って、スケートに取り組んできたのだと思うのだ。はっきり言ってしまえば、親戚一同がその背中に乗っかっているような状態ではなかったか。
そうだとすれば、その彼が、「スケートが全てではない」世界を知った、というのは、私達が捉えるのとは少し意味合いが異なると思うのだ。
羽生選手は、自らの手で、「スケートが全て」の生活を選んできた。それこそが彼の強さだと思う。
しかし、そういかない世界があるのも事実だ。ロシアの少女達にしてもそうだ。あの年齢にして、家族に楽をさせたい、とスケートに打ち込んでいる選手も多い。
実際、ネイサンがどうなのか、はっきりはわからないけれども、私達の物差しだけで計ってしまってはいけないのではないかと思う。
この発言は、ネイサンの素直な気持ちだと思うし、それについて間違っているなどと言う権利は、誰にもないだろうと思うし、フィギュアスケートの為に彼が今までしてきた努力は、並大抵のものではなかったのは明らかなのだから。

それから、その、「スケートだけが全てではない」ということを賛美している向きも有るようだが、これについて、私のこれまでの考えを根こそぎ覆したのが、他ならぬ羽生選手なのだ。
 
 芸術関係に携わっていると、どうしても人生経験や、他の分野にも興味を持ち、視野を広げることが必要だと生徒に言う場面が多くなる。
実際のところ、そうなのだ。必要だと思う、普通は。
羽生選手は違った。彼のような人は特別なのだと思う。

 彼がバラード1番を初めてやった時、私は、「ああ、演奏会に行くか、実際ピアニストが弾くところを見て欲しいな」と思っていた。
ピアニストが身体をどんな風に使って弾いているかを見れば、音楽がわかるから。
音楽をやっているものからすると、音楽を聞けば、どういう動きになるか分かるのだが、そうでない人が、音楽を聞くだけでは動きを掴むのは難しいだろうと思った。
 彼は、その事を、恐らく自分で必要だと感じたのではなかったかと思う。
彼がどうやったかは不明だけれど、シーズンがすすむにつれ、彼の演技はどんどん音楽的になり、次のシーズンには、彼は実際ピアノを弾けるだろう、しかも、この難しい曲を弾けるだろうと思わせる程になったのだ。それは、単なる『音ハメ』とかいうだけのものではなかった。
パトリック選手は、ピアノを弾ける、と聞いていたが、実際パトリック選手の演技から、そう感じたことはない。私がそう感じたのは、羽生選手だけだ。(ついでに言うと、パトリック選手がピアノを弾ける感じがしなかったのは、あの上体の硬さにあったと思う。上体がかたくては、ピアノは弾けない)
彼の選んだ演奏がツィメルマンだった、というのも驚いた。そして、その演奏を選んだ理由も、あまりにも的確で、クラシック音楽の素養がないとは、とても思えなかった。
もし、ピアノの専門家が、フィギュアスケートのプログラムとして、この曲の演奏を選べと言われても、同じ演奏を選んだだろうと思う。
深みがあって、それでいて弾いている「私」が前に出過ぎず、あくまでショパンの音楽に奉仕するような演奏。わずか19才の、専門知識のないフィギュアスケーターが選ぶとは、信じられなかった。本当に驚いた。彼の音楽に対する理解力は、想像を遥かに越えるものだった。
 彼は、フィギュアスケートを突き詰めることによって、こういう高みに到達したのだ。

私はバレエは全くわからないけれども、恐らく同様のことがあるのではないかと思う。
 ピアノやバレエを習ったことがないとか、彼の場合は全く関係ないのだ。
全てをフィギュアスケートに賭けることによって、彼は他の分野のことを理解し、習得していく。
全てはそこから無限に広がっていくのだ。
 
大学生活との両立、勉強との両立、それはとても大変で、やり遂げるのは素晴らしいことだ。
だから、ネイサンは偉いと思う。相当大変なのは間違いないだろう。
そして、フィギュアスケートだけでなく、色んなことに視野を広げていきたいと思うことも、悪いことではない、むしろ、良いことだと思う。
しかし、だから羽生選手がその点で劣っているなどと考える人は間違っていると、はっきり言っておきたい。どちらが偉いとか、そういうことではないのだ。
 彼らはそれぞれに、自分にとって、最適と思う方法でフィギュアスケート、ひいては自分の人生に向き合っている。そのことこそが大切だろう。
それは、他人が評価したり、口出ししたりしてよいものではない。それは、彼らと同じくらい、一つのことに向き合って、苦しみ、もがいて、結果を出した者だけが許されることだ。

これらのことは、演技の評価とは全く別のことだ。私はフィギュアスケートの持つ、芸術的側面を愛している。それがないフィギュアスケートには興味がない。だから、私が繰り返し見たいと思うのは、羽生選手の演技だけだ。ネイサン選手の演技には、私は残念ながら興味がわかない。そして、昨今の試合での採点については、非常に違和感を持っており、もはやISUは信用出来ないと思っている。
しかし、それと、選手の人格とは全く別の話だ。ネイサン選手と羽生選手に限らず、発言の一部を曲解して、選手の人格を批判するような発言は、許されるべきではない。
 
芸術の世界では、作品の評価はされても、作者の人格が「評価」されることはない。北斎が『絵』を描くことにとりつかれたひとだったとか、だれそれは商売上手だったとか、そんな逸話はあっても、それと作品が同列に語られることはない。
私は羽生選手の人としての生き方そのものにも惚れ込んでいるのだけれど、他の人に、だから羽生選手の演技を評価すべきと言う気はさらさら起こらない。演技に、その人そのものが顕れると思うけれども。
それよりも、演技そのものの正しい評価こそ求めたい。
日本のテレビの愚かさで、解説も、映像も、羽生選手がやっている足元の凄さにちっとも焦点を当てないがために、彼の演技の本当の凄さが一般に知られないことに、非常に苛立ちを覚える。
見ている人はみんな、『凄い』と思っているのに、どこがどう他の選手と違うからなのか、誰も説明しない。
 そして、試合での不可解な採点。これは羽生選手だけの問題ではない。体操協会の渡辺氏が、今回の富士通のAIの開発について、『納得のいかない採点によって、選手達が傷つくことのないように』という気持ちから依頼されたという記事を見かけたが、まさに、今、フィギュアスケートで起こっていることだ。多くの選手が、納得いかない採点によって傷ついている。

 羽生選手のファンの一部の方が、ネイサンのインタビューに噛みついたのは、羽生選手の演技が正しく評価されていないという不満が溜まっていたせいだと思う。しかし、矛先をむけるべきはそちらではないだろう。
私は、ISUに、『不可解な採点によって、選手達が傷つくことのないように』少なくとも複数のカメラの導入や、ジャッジによる採点の解説、また、テクニカルが見て判断した映像の共有化、そして最終的にはAIの導入などの手だてを講じるよう、訴え続けたいと思っている。