これは私が今回感じたことであって、必ず羽生選手自身の意図とは一致するものではないかもしれない。あくまで私自身の感想であることを、最初にお断りしておく。
それは、衝撃だった。
私が今、一番欲しかったものが、
そこにあった。
RE-PRAYを実地に観ていたとき、私が後半の構成が弱いと感じていたことは、以前ブログにも少し書いたことがあった。
その感じはショーが回数を重ねる毎に少しずつ解消されていったのだったがーーその感じそのものが今回、吹き飛ばされてしまった。
この後半でこれまで私は、一体何を見ていたのだろう?そこにあったものこそ、今私が一番欲していたものだったのだ。
順を追って書いていこうと思う。
私は今回、事前に全く復習しなかった。
本当に久しぶりに観る、RE-PRAYだったのだ。
最初から、息もつけぬほどの完成度とストーリー展開。演技者が羽生選手ただ一人とはとても思えぬ、各プログラムの内容と完成度に、圧倒された。
ここで私が言う『完成度』とは、単に技術や表現力だけを指すのではないと、断っておきたい。
それらすべてが、ストーリーの中に置かれた各プログラムが持つべき役割ーー彼自身がストーリーの中での演技として観客に届けたいもの、その時の彼の感情、その一点に対して、技術も表現力も、全てがその目的に捧げられ、達成している、という意味に置いての『完成度』なのだ。
だから、競技でよく言われる『完成度』とは、自ずとニュアンスが異なってくる。競技では一つのプログラムだけにおける技術と表現の『完成度』が求められるが、アイスストーリーでは、そのプログラムがストーリー全体の中で持つ、ストーリーテラーとしての役割も必要だからだ。
『鶏蛇』では、退廃的とさえ感じさせる美しさを通してその背後にある人間の《業》に目を向けさせ、一転『阿修羅ちゃん』ではノリノリで、ユーモアも感じさせながら、しかしその裏にある絶望感を、『メガロバニア』では格好良さにくるまれた中にある、闘いの不気味さを、畳み掛けるように観客に突きつけてくる。
その先に来る、『破滅への使者』の緊張感!
それぞれのプログラムで異なる、彼が届けたいものを的確に表現出来る、その能力、その表現力のレベルの高さ。
本当にこれは、羽生選手の特筆に価する才能の一つだと思う。
完璧な『破滅への使者』の後の休憩の間、
久々に見るRE-PRAYの素晴らしさに私は内心興奮を押さえられないでいた。
しかし、後半はどうだろうか?
後半二つ目のプログラム、『レクイエム』が始まった時、私は胸を突かれた。
私はーー私は、何故ここが『レクイエム』なのか、今まで全くわかっていなかったのだ、と思ったから。
後半は、ゲームの中の主人公が、ゲーム的には『主役』であることを放棄し、その他多くの《命》とともに、湖の底に飲み込まれてゆく。
ここでは彼は、ゲームとしては《その他大勢》の、モブということになると思う。
その彼から命が離れていって、《空っぽの器》になって砕け散るところからの、『レクイエム』。
『レクイエム』は元々、震災の津波で失われた命に思いを馳せ、一つ一つを拾って天に帰す、という趣旨の演技だ。
ここでは、津波に限らず、数字として扱われて消えていった《命》一つ一つに対して、それらを天に帰すというレクイエムなのだ、と今頃になって漸く明確に気が付いたのだった。
広くいえば、数字や記号として扱われ、傷つけられた《命》全てに対してのレクイエムだ、とも言えるのではないか、と。
今、背後にある一つ一つの命ーーひとりの血の通った人間ーーに思いを馳せることなくされている議論や発言が巷には溢れている、と私は強く感じている。SNS上での誹謗中傷は言うまでもないが、最近はそれ以外でも感じることがとても多い。世の中全体が、それについて省みることが出来なくなりつつあるのではないか、と危惧している。
私は、主義主張というものは、自由に議論されるべきものだ、と考えている。
しかし、それが《憎悪》に変わっては、いけないのだ。そのために、議論がなされるべきなのだ。
今巷に溢れているのは、その議論を拒否する憎悪のように、私は感じている。
しかし、その憎悪が向けられている向こうには、《命》がある。
そのことを、『レクイエム』は私に強く思い起こさせた。
そして、傷つけられた命一つ一つを悼み、それにそっと寄り添うような彼の演技こそ、私が今、観たかったものだったのだ、と気づいた。
彼の演技そのものに、私自身が癒されていた。
唐突だが、私の好きな昔のドラマに『それが答えだ!』というのがあって、主人公は若き天才指揮者なのだが、その最終回、オーケストラを前にしてのセリフを、ここに挙げたい。
『私にとっての音楽は、闘いです。完璧な音を求め、妥協しないために、皆さんと闘い、私の中に湧き上がるイメージを守るために、時に頑固に、或いは横暴にさえなる必要があります。それが指揮者であり、音楽に殉じるものの使命だと思う気持ちに、今も変わりありません。
何が正しく、何が正しくないか、その答えを見つけることは、容易くはありません。でもそれを探し続けることが音楽であり、人生と呼べるのではないでしょうか。だとすれば、ただ一つ言えることは、憎む事からは、何も生まれません。疑うことからも、蔑むことからも、裏切ることからも、音楽は決して生まれません。』
私はこのセリフが、羽生選手のスケートに対する向き合い方と重なる部分がとても多い気がしている(勿論、彼が横暴だったことは一度もないが!)。
彼にとって、スケートは常に自分との妥協無き闘いであり、そして何よりも、彼は自分に自らの心に、憎しみも、疑いも、蔑みも、裏切りも、持つことを許していないと感じる。それは、それらが、彼がスケートに求めるものを邪魔し、道を誤らせることを知っているからだと思う。そしてその姿勢こそが、私が羽生選手に強く惹かれる理由なのだ。
この主人公は音楽、羽生選手はスケートだけれど、このセリフは、全ての人にとっての真実も多く含んでいると思う。
答えを探し続けることが人生であり、
そして、憎悪は、何も生まない、という真実。
私はこの所、SNS上で様々な形の憎悪を見過ぎていたのだと思う。憎悪は、それが自分に向けられたものでなくとも、人を傷付けるのだと、初めて知った。少なくとも私は、自分が思う以上に傷付いていたらしい。
『レクイエム』は、そしてその後に続く『あの夏へ』『春よ、来い』は、ーー乾いた土に水が染み込むようにーー私の心に染み込んで、癒やしてくれたのだった。
迷いながら、時には立ち止まりながら、それでも前に進んでゆく、という彼の宣言を、私は今回は祈りと共に受け止めた。
彼は必ず、より素晴らしくなって戻ってくる。
その道のりが守られますように、と。
今この時ほど、この世界に彼が必要だと私が強く感じたことはなかったと思う。
最後に、羽生選手と永井さんとの哲学対話の時から考えていたことを少しだけ付け加えたい。
線引きはあっていい。全てが同じである必要は無いのだから。
ハーモニーは、異なる音が集まって、初めて生まれるものだ。全て同じ音であったなら、ハーモニーは、生まれない。それはユニゾンでしかない。
昨日見つけた、オーケストラの団員のツイにも同じようなことが書かれていた。
https://x.com/kanagawaphil/status/1987066332895142340?t=jbHlHU8_kJtovuipOzfWbg&s=09生まれ育った背景、主張、主義、宗教、人種、、、この世の中には様々な人が存在している。
だからこそ生まれるものがある、と私は信じる。
久々に観たRE-PRAYは、そのことを優しく、希望を持っていいのだ、と肯定してくれたような気がした。