僕らが抱く『予感』は、

それが良いものであれ悪いものであれ、

おおむね『当たる』ようにできています

 

 

その『予感』がぼやっとしているなら

自分が取る行動もぼやっとしたものになりますが、

 

それでも自分の人生というものは、

予感が示す方向に進んでいると考えて

間違いないようです。

 

 

 

僕は10代の頃から

 

「将来、日本から出てるだろうな」

 

という漠然とした『予感』を抱いていました。

 

 

 

で、20代の頃、そんなぼやっとした

『予感』が示すように、

 

海外を『なんとなく』ほっつき歩いてたんですが、

サーフィンと出逢ったことで、

 

その『ぼやっとした予感』は

『鮮明な予感』に変わりました。

 

 

『鮮明な予感』は『ゴール』と

表現してもいいですね。

 

 

僕の場合、

それが『オーストラリアに住むこと』でした。

 

 

 

ゴールがクリアになれば、

あとはそこに向けて動くだけです。

 

 

 

『予感』がぼやっとしていると、

行動も漠然としてきますが、

 

『予感』が鮮明になると、

行動は具体的になります。

 

 

 

予感とは意識のフォーカスです。

 

 

人間は誰しも、未来の『予感』に

支配されていきています。

 

 

 

サラリーマンをしている人が、

 

「10年後も同じ会社で、

 同じようにサラリーマンをしているだろうな」

 

という『予感』を持っているなら、

その予感通りの未来が待っているはずです。

 

 

 

そこに自覚があろうとなかろうと、

『予感』が今の行動を決めているのです。

 

 

ヘビに睨まれたカエルが

硬直して動けなくなるのは、

 

未来でヘビに捕食されるという

予感を抱くからです。

 

 

 

『自覚』を持てるのは人間だけなので、

 

カエルにこの予感に対する自覚は

もちろんありません。

 

 

 

予感というのは潜在意識の領域、

自覚は顕在意識の領域です。

 

 

 

理性、自覚、顕在意識というのは

人間だけに与えられた特権なんです。

 

 

 

まあ、これを『特権』と捉えるか、

『分離』と捉えるかは自由ですが、

 

『特権』と捉えた方が未来は明るいですね。

 

 

人間だけが理性によって

未来を創造できる存在なんです。

 

 

 

『自分の人生を生きる』ことは、

 

理性(自覚)で『予感』を育てていくこと

 

と言うことができます。

 

 

 

『自分の人生を生きる』というのは

極めて能動的な行為なんですね。

 

 

 

理性(自覚)で『予感』を

育てていくことができないと、

 

過去のパターンが生み出した『予感』に

支配されて生きていくことになります。

 

 

『人生の奴隷』になっちゃうわけです。

 

 

 

『予感』が鮮明になればなるほど、

 

『予感』という言葉が似つかわしくない

言葉であるように感じ始めます。

 

 

そうなってくると、

もう実現したようなものです。

 

スピリチュアルで語られていることは、

 

いったん、すべてメタファーとして

捉えてみるといいと思います。

 

 

【 メタファー = 隠喩・暗喩 】

 

 

 

つまり、スピリチュアルで語られる諸々は、

『何かのたとえ』だと考えてみよう!

ってことです。

 

 

たとえば、『引き寄せの法則』でおなじみの

 

「宇宙にお願い」の『宇宙』

潜在意識のことを表しています。

 

 

 

ということは、「宇宙にお願い」は、

「潜在意識にお願い」となるわけですが、

 

これでもまだイマイチよくわかりません。

 

 

 

そこで、今度は

 

「『お願い』は何を意味するんだろう?」

 

「『潜在意識』ってそもそも何?」

 

と考えてみるんです。

 

 

 

 

そうやって具体性を持たせていくことで、

 

『引き寄せの法則』とは一体、何なのか

ということが見えてきます。

 

 

 

他にも、

 

 

「『ありのまま』ってどういうこと?」

 

「アセンションって?」

 

「波動って?」

 

「ワンネスって?」

 

「手放すって?」

 

 

などなど、いくらでも出てきます。

 

 

 

いつも言ってますが、

スピ文言をそのまま受け入れちゃうと、

 

出口のない迷路をさまようことになるので、

 

やっぱり自分で一度、咀嚼してみることって

必要だと感じてます。

 

 

 

 

こういったスピ文言を

自分で咀嚼することなしに、

 

そのままアウトプットしている人も

かなりいますが、

 

(いわゆる『ふわスピ』ってやつです)

 

ストレートに言っちゃうと、

それって『盲信』以外の何物でもありません。

 

 

盲信することは『依存』と同じなので

ちょっと危なっかしいですね。

 

 

自分の足で立ててないわけですから。

 

 

 

『ふわスピ系』の人って、

何の説明もなしにいきなり、

 

「魂を成長させるために

 この地球にやってきました」

 

なんて言ったりしますが、

これ、まっとうな感覚を持っている人なら

 

「え?宇宙人ってこと??」

 

ってなると思いますよ。w

 

 

まあ、広い意味では人間も

宇宙人かもしれませんが(笑)、

 

少なくとも、僕ならもっと

具体的な説明を要求したくなります。

 

 

 

具体性を持たせるためには、

 

イメージ世界のスピを

言語世界に持ってきてあげればいいんです。

 

 

『自分の中で科学する』と言ってもいいし、

まあ、要は『考える』ということですね。

 

 

 

せっかくなのでこれを

僕なりに解釈してみるなら、

 

「そもそも生命ってどこから来たのか?」

 

って話になってくると考えます。

 

 

 

ビッグバン以前は宇宙というのは

真空だったわけですが、

 

そこにはまだ生命らしきものは

見当たらないわけです。

 

 

 

で、ここから(長くなるので)

はしょりながらの説明になりますが、

 

 

真空は大爆発を起こして、

 

光の粒子が生まれ、原子が生まれて、

恒星が生まれて、太陽系が生まれて、

 

その中の惑星の一つである地球に海ができ、

タンパク質がそこに漂い始めて、

 

ある時、それが『生命』にジャンプアップする

というミラクルが起こったわけです。

 

 

(これって、本当に『奇跡』だと思います。

 

 こういう時に『神』って言葉は

 使われるべきなんじゃないでしょうか?)

 

 

 

「じゃあ、この『生命』ってどこから来たの?」

 

って話になってくるんですけど、

 

地球という星だけが宇宙から

『分離』していたわけではないので、

 

そうなってくると、やっぱり『生命』は

「宇宙からやってきた」ってことになります。

 

 

 

 

 

こうやって具体化することで

どんなメリットがあるのかというと、

 

僕の場合、この解釈から、

 

 

・宇宙という壮大なスケールの中に

 生まれた小さな個々の生命の尊さや儚さ

 

・今を生きるとはどういうことか

 

・過去に執着することの愚かさ

 

・人間というのは歴史上の

 どういったポイントを今、生きているのか

 

 

なんかが腑に落ちました。

 

(文章からは腑に落ちた感が伝わらないと

 思いますが、実際、腑に落ちてます。)

 

 

腑に落とすためには、

具体化のプロセスが大事だったりします。

 

 

 

 

スピリチュアルって、要は、

 

「いかに生きていくか」

 

ってことを語ってるんです。

 

 

 

『神話』みたいなものですね。

 

 

 

『神話』って抽象度とエネルギーを

極限まで高めた物語のプロット

 

と言うこともできるんですけど、

 

そこには、物事の『本質』

乗っかってるわけです。

 

 

 

だから、スピに足を踏み入れちゃった人は、

 

その『本質』を自分の中に

インストールすればいいと思うんです。

 

 

 

インストールの方法は『分解・再構築』

 

『分解』のキーワードは

 

「これは何を意味してるんだろう?」

 

です。

 

 

 

【参考記事】

 

『ふわふわスピリチュアル』 からの卒業

 

スピを分解、再構築してリテラシーを高める

 

 

 

 

僕は、世間に流布する『自己責任論』

というものに違和感を感じています。

 

 

 

世間で語られる自己責任論が

 

「自分のことは自分でなんとかしようよ」

 

という、相手を切り捨てるような

ニュアンスで語られるからです。

 

 

 

また、アンチ自己責任論者も、

自己責任論を『弱者の切り捨て』として

批判します。

 

 

 

 

中には、

 

「自己責任重視の社会か?

 それとも助け合い重視の社会か?」

 

なんてことも同時に語られたりしてますが、

 

そもそも、『自己責任』と『助け合い』って

相反するものではありません。

 

 

 

 

どうして、こんな的外れな

議論が生まれるのかというと、

 

自分の人生に責任を持ててない人たちが

『責任』というものを理解しないまま、

 

あーだこーだ言い合っているからです。

 

 

 

『責任』ってけっこう抽象的な言葉ですが、

『責任』とは、要は『引き受け』のことなんです。

 

 

 

だから、『自己責任』というのは、

 

『自分の人生に起こったことを

 自分のものとして引き受ける』

 

ということだと言ってもいいでしょう。

 

 

 

自分の人生を自分のこととして

引き受けて生きている人は、

 

安易に『他人の自己責任』なんて

追求しないはずです。

 

 

 

『引き受ける』という言葉に

もう少し具体性を持たせるなら、

 

それは『他人のせいにしない』ということ。

 

 

 

つまり、自己責任というのは、

ものすごく一人称的な概念なんですよ。

 

 

 

当事者が自分で自分の言動を

自己責任と言うのOK、

 

と言うか、まあ、

そうあって然るべきなんですが、

 

それを他人が言っちゃうのは

アウトなわけです。

 

 

 

なのに、他人の自己責任について、

第三者が、それこそ無責任に言及するから、

 

『自己責任』と『助け合い』が

対立概念として浮上してくるんです。

 

 

 

そうなってくると、

 

「自分のことくらい自分でなんとかしろよ!」

 

という殺伐とした冷たい雰囲気が

社会に充満してしまいます。

 

 

 

そうじゃなくて、

自己責任社会でありながらも、

 

それと同時に、失敗した人を応援、

または助けようとする『雰囲気』を

社会は持っている必要があるんです。

 

 

 

 

もちろん、大前提として、

 

当事者は他人に助けてもらうのを

期待して自己責任論を語るべきではありません。

 

 

他人の援助を期待している時点で、

それは自己責任ではないですからね。

 

 

 

『自己責任』と『助け合い』が

相反するものではないことが理解できれば、

 

個々人が自分の責任として自分の人生を生きつつ、

社会がそれを生暖かく見守る、

 

そんな雰囲気が社会に生まれるのも

それほど難しいことではないと思ってます。

 

 

 

そういったことを踏まえた上で、

『自己責任論』は語られるべきなんです。

 

 

 

自己責任を否定するということは、

 

「自分が辛い人生を送っているのは社会のせいだ!」

 

って言っているようなものです。

 

 

 

アンチ自己責任論者は、『弱者救済』を

論点にしていることが多いですが、

 

自己責任の意味をしっかりと理解していれば、

人生の突破口というのがいずれ見えてきます。

 

 

 

何はともあれ、

当事者を第三者がバッサリ切るような

 

「切り捨て御免」の自己責任論では、

どこにも辿り着けないと思ってます。

 

 

なんだかんだ言って、

人間の顕在意識潜在意識の関係を

理解することって大事だなって思います。

 

 

 

世の中の大半の人は潜在意識と顕在意識を、

ただ『意識』としてひとくくりにしちゃってるか、

 

もしくは、自分で容易に知覚できる

顕在意識のみを『意識』だと思ってます。

 

 

要は『潜在意識』というものに対して

すごく疎いんです。

 

 

 

僕らは、

 

『顕在意識は大嘘つき』

 

『潜在意識はバカ正直』

 

ということを知っておいた方がいいです。

 

 

 

顕在意識というのは、

物事や自分の言動をこれでもかってぐらい

都合のいいように解釈します。

 

 

 

だから、後輩を叱る時なんかに

 

「わかってんのか?

 お前のために言ってやってんだぞ!」

 

なんていうエゴだらけの感情を

無自覚に相手にぶつけたり、

 

 

 

うだつが上がらない現状に対して、

 

「あいつさえいなければ・・」

「あの時、あれさえ起こらなければ・・」

 

と、他人や出来事、そして環境に

原因を見出そうとします。

 

 

 

一方、潜在意識というものは、自分の性質を

行動をもってストレートに表現してくれます。

 

 

どんなに言葉で

 

「お前が一番大事だ」

 

なんて囁いても、

 

実際、相手を雑に扱っているなら、

その人は相手を大事にしていない人間なんです。

 

 

 

いつも締め切りに間に合わずに、

 

「ごめん、次回は絶対に間に合わせるから!」

 

なんて言ってる人は、

締め切りに遅れる人間なわけです。

 

 

 

赤ちゃんを見れば、どれだけ潜在意識が

正直なのかを理解することができます。

 

 

赤ちゃんって顕在意識というものが

未発達なので、ほぼ潜在意識主導で生きてます。

 

 

だから、全ての感情、行動が

ストレートに顕れるんです。

 

 

さっきまで号泣してたかと思うと、

急に満面の笑みを浮かべたりします。

 

 

拗ねるなんてことも、もちろんないし、

全てのアクションが本来の自分に正直だったりします。

 

 

 

これが成長と共に

顕在意識(自我)が芽生えるにつれて、

 

潜在意識が意識の奥へ奥へと

追いやられていくわけです。

 

 

 

 

僕の職場には、

 

「この歳になって今さら変われない」

 

と自分の境遇を嘆いている

おっちゃんがいるんですが、

 

「変われないんじゃなくて、

 変わりたくないだけなんじゃない?」

 

って、それとなく言ってみたことがあります。

 

 

 

それに対して、そのおっちゃんは

 

「変わりたいに決まってるだろ!

 でも、もうムリなんだよ!!」

 

ってなことを言ってましたが、

 

実際、変われない理由というのは

潜在意識レベルで「変わりたくない」という

決意をしているからなんです。

 

 

 

もちろん彼は自分の心の奥の

仕組みまでは知らないので、

 

全てのジャッジは顕在意識に

委ねられることになります。

 

 

潜在意識という心の仕組みを知らないと、

容易にマインドの奴隷になってしまうんです。

 

 

自分の行動の真意が、

顕在意識によって誤魔化されるからです。

 

 

 

顕在意識で「こんなはずじゃない」と感じてる場合、

 

そこで意識が未来に向いてる人は、

「こんなはずじゃない」はエネルギーに変わるし、

 

そうじゃない人は苦しみに変わります。

 

 

 

でも、そうやって苦しんでいる人は、

なんで自分が苦しんでいるのかが

理解できないんです。

 

 

 

もちろん、潜在意識に関する

理解がなくても、

 

自分の人生を上手に

前進させていける人もたくさんいますが、

 

でも、そうでない人の方が圧倒的に多いです。

 

 

 

そんな人は、人間の『意識』について学ぶだけで

意識のステージがバコッと上がって、

客観的視野を育てることができるんですけどね。

 

 

 

その人の生きる世界というのは、

その人の『在り方』

つまり、『潜在意識』によってできています。

 

 

こういったことも、義務教育に盛り込んで

必須科目にしたらいいのになって思ってます。

 

タイトルの通りなんですが、

 

『The Law of Attraction』

『引き寄せの法則』と翻訳した人の罪は大きい

と思ってます。(笑)

 

 

 

『引き寄せの法則』ってネーミング、

 

自分は変わらずに

ラクして望みを叶えたい人にとって、

 

思いっきりフックになってるんですよね。

 

 

ちょっと冷静になって

考えてみればわかることですが、

 

願うだけで願望が

あっちからやってきてくれることなんか

あるわけないんですよ。(苦笑)

 

 

 

ここにハマって、

何年もひたすら願い続けてる人は、

 

命の時間という何よりも尊いものを

ただただ浪費しちゃってることに

気づいた方が良いですね。

 

 

 

いや、こじつけたりなんかして、

小さな願いは叶ったりしてるかもしれませんよ。

 

 

でも、『自分の現状がどれだけ前進しているか』

を見れば、ちゃんと引き寄せてるかどうかなんて

一目瞭然なはずなんですよ。

 

 

 

ある人が言ってましたが、

 

「願うだけで欲しいものが手に入る」

なんて思ってる人は、

 

サンタクロースを信じてる子供と

なんら変わらないわけです。

 

 

『引き寄せの法則』を盲信している人って、

本質的にピュアなんだろうなと思いますけど、

僕らはもう子供じゃないんですよ。

 

 

もちろん、ピュアであることも大事ですが、

大人のピュアネスと子供のピュアネスとでは

種類が違います。

 

 

子供の純粋さは『無知』に由来しますが、

大人には知識と経験と理性が備わっているはずです。

 

 

だから、大人の場合は『知性』に裏打ちされた

純粋さを育てて行く必要があるんです。

 

 

【 Attraction 】には

『魅力』という意味もありますが、

 

あなたにとって魅力的な人って、

ただ宇宙にお願いして待っている人ですか?

 

 

まあ、そういうのも

無きにしも非ずかもしれませんが、

 

多くの人にとって、魅力的な人って、

 

行動と実践によって

現実を変えてきた人だと思うんです。

 

 

行動と実践を繰り返すことで、

自己を成長させていくことができます。

 

 

そうやって少しづつ

魅力的な人間になっていくんですよ。

 

 

 

『引き寄せの法則』って

とどのつまり、引き寄せるんじゃなくて、

 

自分が変化しながら

対象に近寄って行く法則なんです。

 

 

 

 

だから、『魅力の原則』とか

もっと他の訳があったろうに、

 

『引き寄せの法則』なんて名付けたばかりに、

 

ただただ、祈り続ける人を

量産することになったんです。

 

 

 

僕としては、いっそのこと

原題の『The Law of Attraction』

のままでもいいんですけどね。

 

 

 

 

【参考記事】

『引き寄せの法則』の真実とその現実性

 

 

 

ぶっちゃけ、スピの世界観なんて

あってもなくてもどっちでもいいなって思ってます。

 

 

 

スピが提示する本質論は好きと言えば好きですが、

それが自分の人生に必ずしも必要かと言えば、

 

別になくても困らないかな、って感じなんです。

 

 

 

もうちょい具体的に言うと、

 

たとえば、自己実現や願望実現に関して、

別に『引き寄せの法則』って言葉を使おうが

使うまいがどっちでもいい、ってことです。

 

 

 

ただ、スピの世界観を『採用』すると

便利なこともあるので、

スピ的に物事を解釈することもあります。

 

 

 

何が言いたいかというと、

 

『世界観(パラダイム)というものは採用するもの』

 

だということです。

 

 

 

こんなこと言うと、『ふわスピ系』の人に

 

「世界はスピそのものだから採用するも何もない」

 

云々かんぬん言われそうですが、

そういう人はまず、

 

『世界にアプリオリなものなど存在しない』

 

ということを理解しないといけません。

 

 

 

その世界にどっぷりと浸かっているうちは、

自分がどういう場所にいるのか見えないものです。

 

 

 

海を泳いでる最中は、

海の広さなんてわかりませんからね。

 

 

 

『スピ』という海で泳ぎながら、

 

「彼は私のツインソウルだ」

「私は魂の成長のためにこの地球にやってきた」

 

なんて思い込んでると、それが執着になって

エゴを肥大化させるだけです。

 

 

 

だからいったん、そこから出て、そして、

『系の外』から世界を眺めてみる必要があるんです。

 

 

 

そうすると、

人生が一層おもしろいものになります。

 

 

自分の人生は、

自分で自由に『設定』できるんです。

 

 

 

「彼は私のツインソウルだ」

「私は魂の成長のためにこの地球にやってきた」

 

 

という設定にした方が、

人生がより良くなるのならそうすればいいんです。

 

 

 

『スピ』だけに限ったことではありません。

 

 

 

「自分から野球を取ったら何も残らない」

「自分から音楽を取ったら何も残らない」

 

なんていうのも同じです。

 

 

 

 

人生なんて、

どこからでもスタートを切れるし、

 

野球を取ったら何も残らないなんてことは

ありえないわけですが、

 

そう設定にした方が、ゴールにエネルギーが

与えられるんならそう設定すればいいんです。

 

 

 

 

ポイントは系の外から設定する

というところです。

 

 

というか、系の外からじゃないと

設定できませんからね。

 

 

系の中にいると選択肢がそもそもないので。

 

 

いろんな世界観を持って

生きていけばいいと考えてます。

 

 

 

言葉も1ヶ国語しか使えないよりは、

2ヶ国語、3ヶ国語と使えた方が

 

視野も広がるし、視点も高くなるし、

便利だし、楽しくなります。

 

 

 

状況によって使い分ければいいと思うのです。

 

 

 

 

人工知能未来の仕事が話題になる時、

 

「創造性が求められる仕事は人間にしかできない」

 

ってことが言われます。

 

 

 

美容師、調理師、ミュージシャン、伝統工芸の職人

といった職業のことを言っているんですけど、

 

これらの仕事が人間の専売特許だと思うのは

ちょっと傲慢じゃないかって気がしてます。

 

 

 

さすがに美容師は

人間にお任せしたいと思いますが、

 

その他の仕事は人工知能やロボットにだって

可能だと思いますね。

 

 

 

そもそも、創造性(Creativityとは何か?

 

ってことを最初に言っとくなら、それは

 

『今はまだ存在しない新しい価値を生み出すこと』

 

なわけですが、

 

これってむしろ人間より人工知能の方が

得意である可能性が大きかったりします。

 

 

 

人工知能は0から1を生み出すことができない

と言われてますが、

 

実はこれは人間だって同じです。

 

 

 

人間の自我というのは

記憶によってできてるので、

 

記憶がなければ

1もありえないわけです。

 

 

 

『創造』とは記憶情報と記憶情報を

掛け合わせて、そこに技術が加わることで

新しい価値が生まれること。

 

 

そういう意味じゃ、

人間よりもはるかに膨大な情報をストックできる

人工知能の方が可能性を秘めているかもしれません。

 

 

 

マインドというのは人間を特別な存在、

高尚な存在だとみなしたがりますが、

 

宇宙の原理からすれば、

人間だけが特別なのではないのは明白です。

 

 

 

ある人が、

 

「『悟り』とは、自分は何者でもない

 ということに気づくこと」

 

と言ってましたが、

 

これほどシンプルに調和と言うことを

説明した言葉はないですね。

 

 

 

人工知能に創造性を見ることができるなら、

人間はどう生きていけばいいんでしょうか?

 

 

 

人間にあって人工知能にないもの、

それはストーリーだと僕は考えてます。

 

 

 

僕は岡本太郎さんの『太陽の塔』

好きなんですが、

 

それは『太陽の塔』の背景に

岡本太郎さんという物語があるからです。

 

 

岡本太郎さんの人生のストーリーの投影として

『太陽の塔』があるわけです。

 

 

 

もし、人工知能がなんの前触れもなく

『太陽の塔』のデザインを生み出したとしたら、

 

僕はここまで『太陽の塔』を

好きじゃなかったと思います。

 

 

「何だ、このわけのわからないデザインは!?」

って思ったかもしれません。

 

 

 

同じように、自分の物語というものを

上手に表現することができれば、

 

「この先生から勉強を教わりたい」

 

「この選手を支援したい」

 

「この人から買いたい」

 

「この人の料理が食べたい」

 

「この人と仕事がしたい」

 

といった需要が生まれるはずです。

 

 

 

つまり、『この人』という存在が

価値に変わるわけです。

 

 

 

どんな人でも独自の

人生のストーリーというものを持ってます。

 

 

 

自分の人生の物語に魅力を感じないなら、

 

それは自分の人生というものを

魅力的に解釈できていないからです。

 

 

 

気合いや根性といった腕力で自分を

表現するのではなく、

 

自分の人生を魅力的に解釈するスキルも含めて、

自己表現のテクニックを学んで実践していくこと、

 

そこに人工知能時代の生存戦略があるように思いますね。

 

 

20代の頃、

写真家・星野道夫さんに触発されて、

 

実際にテントと寝袋を担いで

アラスカを旅したことがあります。

 

 

 

バンクーバー経由でアンカレッジへ、

 

そこからアラスカ鉄道に乗って

フェアバンクスまで行き、

 

そこで初めてオーロラというものを見ました。

 

 

 

 

僕が好きな言葉で、

 

「Life is what happens to you 

   while you’re busy making other plans」

 

(人生とは何かを計画している時に起きる他の何かだ)

 

というのがあるんですけど、

 

僕は基本的にゴールを設定したら、

そこに過剰に期待はしないというスタンスでいます。

 

 

 

ゴールに向かって行動していれば、

そのプロセスで勝手に何か面白いことが

起こってくれるからです。

 

 

 

このアラスカへの旅の目的は

オーロラと氷河を見ることだったんですが、

 

それらに対しては

ほとんど期待はしてませんでした。

 

 

 

ところが、

実際、オーロラが頭上に現れた時、

かなりたまげちゃいましたね。

 

 

想像以上の代物だったからです。

 

 

写真や映像で見るよりも

はるかに長くて大きい薄黄緑色の光が、

 

形を変えながらゆらゆらと

暗闇の中で揺れているんです。

 

 

 

「ええ、こんなことってある!?」

 

人は感情を強く動かされると、

語彙力が乏しくなりますが、

 

まさにそんな感じでした。

 

 

 

 

もちろん、なぜ極北に

オーロラという現象があるのか

という前知識はありました。

 

 

でも、実物に触れて、

そういった知識レベルでの理解というものが

いかに貧弱なものであるかを思い知ったわけです。

 

 

 

そして、思いました。

 

 

「科学がまだ発展してない時代の人たちは、

 このオーロラという現象を見て

 何を感じただろう。」

 

 

 

『神秘』という言葉にも表現されているように、

 

僕らの祖先たちは、そこに

『神』というのを見ていたと思うんです。

 

 

 

『神』というものが普遍的な存在であるなら、

自然の中にこそ神は宿っている

と考えても何ら違和感はありません。

 

 

 

そして、僕ら人間も、

本来は自然の一部なのです。

 

 

 

先進国に身を置いて、

社会システムが複雑になればなるほど、

 

人間の心には『分離』というのが

生まれやすくなり、

 

自我というのは

世界から切り離されていきます。

 

 

 

複雑なシステムの中で、

そして、複雑な人間関係の中で、

 

僕らの頭の中にはノイズが

生まれやすくなってしまいますが、

 

そんな時でも、

 

遠く離れた極北の大地では

今日も昔と変わらず、

 

オーロラが光を放っていること、

 

そして、氷河が「パァン」という轟音を

響かせて崩れ落ちていること、

 

そういう世界があるのを想像できることが

僕らの中にある神性へとつながる通路になる、

 

そんな気がしてます。

 

 

 

「バスを一台乗り遅れることで、

 まったく違う体験が待っている。

 

 人生とは、そして人の出逢いとは

 突き詰めれば、そういうことなのだろう。」

 

 

と星野さんは言ってますが、

 

僕にしても、彼との出会いがなければ、

まったく違った人生になっていたはずです。

 

 

 

そう考えると、

 

今の自分がこうしてここにいることも、

すべて『Perfect』な気がしてきますね。

 

ボーダレス化が進んで

世界は多様化しているように見えますが、

 

人種や人間の意識というのは

 

多様化ではなく、

『画一化』しているように見えます。

 

 

 

人種や人間の意識というのは

一つに収束しているのです。

 

 

 

僕は多民族国家に住んでいるんですが、

ハーフやクオーターの人なんて

あっちこっちで見かけます。

 

 

 

そんな彼らを見ていると、

 

ウェスタンの姿顔立ちの中に

日本人の雰囲気が混じっていたり、

 

アジア人っぽい風貌に

ウェスタンの面影があったりと、

 

一人の人間の中に

複数の人種が見えます。

 

 

 

ブラジルなんかは

混血がかなり進んだ国ですが、

 

黒人、白人、アジア人がミックスされて、

全ての雰囲気を満遍なく宿してるように

見える人もいます。

 

 

 

日本で生活していると

ピンとこないかもしれませんが、

 

世界では人種のリミックスというのが

進んでいるんです。

 

 

 

永い年月をかけて混血を繰り返していけば、

人種というのは一つにまとまります。

 


 

僕としては『一つに溶け合う』

表現した方がしっくりきますね。

 

 

 

様々な色の絵の具を混ぜると、

溶け合って『新しいひとつの色』ができますが、

そんな感じです。

 

 

 

アメリカではかつて、

多様な人種が混在している様子を

『人種のるつぼ』と表現していましたが、

 

実際のところ、人種間の隔たりは大きく、

決して混ざり合うことがないことから、

『人種のサラダボウル』なんて形容も生まれました。

 

 

 

それでも、宇宙単位の大きな枠組みで見てみると、

やはり、『一つに溶け合う』という考え方が

的を射ているように思います。

 

 

 

『宇宙単位の枠組み』というのは

長期的視野のことなんですけど、

 

そもそも、人類史というのは

まだ始まったばかりだということができます。

 

 

 

かつてこの地球には

恐竜という生き物が生息していたんですが、

その期間は8000万年にも及ぶそうです。

 

 

 

8000万年って、すごいですよね!?

 

 


 

今、西暦2019年ですけど、

キリストが誕生して、

 

まだ2000年とちょっとしか

経っていません。

 

 

 

釈迦が誕生してからだと

だいたい2500年くらい。

 

 

メソポタミア文明でも

5000年とかそこらです。

 

 

 

で、産業革命によって、人間が持つ

テクノロジーが飛躍的に進化し始めたのが、

今からだいたい200年くらい前。

 

 

 

そう考えると、人類の歴史って

まだ始まったばかりに見えませんか?

 

 

 

僕はいつも思います。

 

 

「僕らは、これから未来永劫続くであろう

 人類史のほんの始まりのポイント、

 つまり、人類前史を生きているんだ。」と。

 

 

 

 

大気圏外に人工衛星を浮遊させ、

スマートフォンが普及し、

 

人工知能が息吹を

上げようとしているからと言って、

 

人類は今、進化の最先端にいると考えるのは

人間のエゴから生まれる

傲慢さでしかないと思ってます。

 

 

 

136億年という気の遠くなるような

宇宙の歴史から見ると、

 

人間というのは宇宙の片隅で

ごにょごにょやっているに過ぎません。

 

 

 

「宇宙には魂があると思いますか?」

 

と問われた今世紀最大の宇宙物理学者、

フリーマン・ダイソンはこう答えています。

 

「もちろんだ、そう考える方が理にかなっている」

 

 

 

 

実際、宇宙に魂があるかどうかは

わかりませんが、

 

宇宙という壮大な物語の中の

一部分として地球を見た時、

 

人類が一つに収束していると考えるのは、

そんなにぶっ飛んだ発想ではないように感じます。

 

僕にはもうすぐ一歳になる息子がいますが、

まだ世界との境界線すら曖昧であろう彼を見て、

 

「こいつも親父なんか

 楽勝で超えていくんだろうな」

 

なんて考えながら、一緒に遊んでます。

 

 

 

20年後くらいに言われるかもしれません。

 

 

「なに偉そうにコーチングなんて言ってんの?

 そんなのとっくにオワコンだよ!」と。

 

 

 

コーチングって要は『努力の仕方』を

実践するための方法論なんですけど、

 

未来の子供たちは『当たり前』のように

セルフコーチングを身につけて、

 

自分の頭で考えて

いろいろ行動しているかもしれません。

 

 

 

 

もしくは、

 

「そんなことよりさ、

 お釈迦様ってすごいの知ってる?」

 

なんて言われたりして、

僕はこう返すかもしれません。

 

 

「ああ、彼は父ちゃんが若い頃からすごかったよ」

 

 

 

 

どれだけテクノロジーが進化しようと、

どんなに世界が激変しようと、

 

釈迦の思想が人と人を

繋いでくれるのは確定事項です。

 

 

技術の進化と世界の変容ぶりに

遅れをとりながらも、

 

人間の意識というのも

ちょっとずつ次元上昇しています。

 

 

釈迦はそんな人間の意識の進化の物語に、

主要登場人物として駆り出され続けるでしょう。

 

 

 

 

人類の意識の進歩はまだまだ続きます。

 

 

まだ見ぬ僕の孫なんかは

こんなことを言ってくるかもしれません。

 

 

「ねえ、じいちゃんが若い頃って、

 動物殺して食べてたんだよね?」

 

 

僕は口にチャックをして、

だんまりを決め込むしかないでしょう。

 

 

 

人間という生き物は、

とうの昔に『生存』のために

動物を食べる必要はなくなってます。

 

 

人間が生存に必要な栄養素というのは

植物性の食べ物でまかなえるし、

 

豆など、動物以外からプロテインを

摂取する方法だってたくさんあります。

 

 

それでも、牛や豚や鳥や魚を殺して食べるのは、

『食のエンタメ性』を排除できないからです。

 

 

つまり、動物を殺して食べることは、

とりわけ先進国の人間にとっては

もはや『娯楽』なわけです。

 

 

 

僕も毎日、『当たり前』のように

肉や魚を食べてますが、

 

そんな『当たり前』も、

ここ数年でちょっとだけ変化しました。

 

 

 

僕は職業柄、料理系のYouTubeチャンネルを

よく観るんですが、

 

日本の伝統調理法である魚介類系の

活き造り』なんかの動画コメント欄には、

 

外国人からのこんな批判のコメントが

たくさん載ってます。

 

 

「むごいことをするな。

 息の根を止めてから調理しろ!」

 

 

 

日本に住んでいる時は、活き造りは

まったく気にならなかったのに、

 

海外に出てみて、

 

「いや、確かにないわ!」

 

と思うようになりました。

 

 

生きたまま食べるということが、

野蛮に感じるようになったんです。

 

 

ベジタリアンではない僕でもそう感じます。

 

 

場所や時代が変われば、それまでの

『当たり前』が当たり前じゃなくなります。

 

 

 

今、欧米を中心にベジタリアンやビーガン率

が急増しています。

 

 

日本でも、ちょっとずつではあるけど

増えてきてますね。

 

 

そうなってくると、まだ見ぬ孫の言葉も

現実味を帯びてくるかもしれません。

 

 

 

自分の息子を見ていて、

いつも思うことがあります。

 

 

「こいつは親父とは

 まったく違った価値観を持つんだろうな」と。

 



このちょっぴり寂しい現実を、

僕は父親として喜んで受け入れないといけません。



ここでセンチな気持ちになるのは、

むしろ母親の方でしょう。

 

 


傍目で見てていつも痛感することですが、

親父がどんなに気張ろうと、

オカンの愛情、包容力にはかないません。

 

 

それに、それは父性原理、

つまり親父の役目でもないと思ってます。

 

 


そうであるなら、親父の役目は、

 

「世界がお前を受け入れる準備はできているぞ!」

 

と言わんばかりに、送り出してやること。

 

 

 

欲を言うなら、

 

「親父は親父として、

 世界を楽しんでいる姿を背中で見せていきたい」

 

そう思いながら、未来創造と次元上昇という

上質のエンタメを精一杯満喫している毎日です。