でも、実際に足を踏み込んでみると、やっぱり相手は選ぶらしい。そもそもタイプじゃなきゃ興奮もしない、と。まあ、そりゃそうか。
でも、逆に言えばタイプなら出来るらしい。恋人関係じゃなくても。
これは一般的な男女の間にもあることなのだろうか。
自分はそこがまだ腑に落ちない。友達という関係でセックスなんて出来ない。するべきじゃない。例えば、してみないと分からないことっていうのはあると思う。だから、してみて、それから付き合うかどうかを考える。でも、付き合うことなど考えずにする人も少なくない。
よく分からない。
けど、それがこの世界の当たり前なら自分もそれに沿ってみるのも悪くないかな、と思う。経験する前に否定するのはやはり良くないと思うから。
では、友達になりたいと言いつつ、性的関係になり、その後、実は好きだった、というパターンはどうだろうか。実際、割と多いのかなという気がする。「とりあえずお友達から」ってやつだ。
そうなってしまうと私は対応に困ってしまう。
知らな過ぎるのだ。この世界の常識も相手の中の常識も。
例えば、付き合ってからも他の人と「友達」と言いつつ性的関係になるのでは、とか。それは怒っていいのか許すべきなのか、とか。
何も考えなくて済むのなら、それが一番楽なのかもしれないと思いつつ、それはきっと破綻するという気持ちもある。
誰かを好きになるということが分からなくなっていく。
そんな中、自分のことを好きだと言ってくれる人が現れる。
その「好き」はなんですか。どういう意味の「好き」ですか。いつまで続く「好き」ですか。
そんなことを聞けるはずもなくて、だからって好きでもないのに好きとは言えなくて「ありがとう」と返す。
それは、その場しのぎにしかならない。自分が傷つかないための、相手が傷つかないための、そういう答え。
知ってほしい。そういうつまらないことで悩んでいることを知ってほしい。でも、そこを見てくれる人はいない。顔や文面だけで、「好き」だという。会ってみて、表面上の自分を見て、「やっぱり好きだ」という。
やっぱりだなんて早過ぎる。まだお互いの1%も知らないのに。
2%を知って「やっぱり合わない」と言われる気がする。その「好き」を信じるのは怖い。
考えれば考える程、相手との間に壁が出来る。
考えないで流れに任せると、後悔の大波が押し寄せる。
適度という曖昧なものは分からない。
どこまで考えればいいの。どこまで考えたらいけないの。
分からないまま「友達」が増えていく。
友達には言えない「友達」が増えていく。
誰かのために生きたいなんてやっぱり自分には重過ぎたのかもしれない。
何人も同時に救うことなんて出来ない。
いつかはどれかを、誰かの手を離さなければいけなくなる。ならば最初から掴まなければいい。
こちらからではその高さすら分からぬ崖の縁に掴まる誰かを、同じ理屈で素通りする。
そんなことが自分に出来るのか、それが出来てしまったら今までの自分がしてきたことは全て偽善だったのではないか。それが嫌で手を掴むのならば、それこそ偽善なのではないか。そんなことを考えていたら夢に出てきた。助ける方法など存在しなかった。目の前で突然車が列車と衝突した。遮断機の故障だったのだろう。踏切を渡る車の横に列車が強くぶつかった。それを見て、すぐにスマホを取り出し110番しようとした。助かるか助からないかまだ分からない。警察に事故が起きたと話せばパトカーも救急車も来るはずだ。そう思いながら番号を押そうとする。けれど、手が震えて上手く押せない。たった3つ数字が押せない。
そこで目が覚めた。結局救えないのだと。少なくとも自分はそう思っているのだと感じた。それでも、心から救いたいと思っていることも分かった。知り合いでもない顔も知らない誰かであったとしても、目の前で起きた以上は自分に出来ることをする。それが、自分の中にある当然の行為なのだと。善意でなければ偽善になることもない。ただ、そうしたいからそうするのだ。
ならば、今の状況はどうすればいい。
誰かがこちらを見ている。
助けを求めているのかは分からない。危険な状態なのかも分からない。表情すら分からない。けれど、その目が自分を見ているのは分かる。
ならば自分はどうすればいい。
分かる位置まで近付くか。
その誰かが複数人だったらどうする。全員を確認するか。
もし助けを求めていたとしたら相手は助けてもらえるものだと期待する。
こちらにその気がなくとも期待させてしまう。期待されたら応えるしかない。けれど一人しか助けられないだろう。
誰を切り捨てる?
何を基準に選ぶ?
・・・助けを求めているのは自分ではないか。