久々に会った叔父の肌は土色で、ふっくらとしていた頬はこけていた。当然、表情はない。

 

 叔父が死んだ。昨日は葬儀だった。

 祖母が亡くなり親戚が一同に会する機会も減り、また私が地元を離れてからというもの、親戚とはだいぶ疎遠になっていた。思い出せる限りでは、叔父と最後に顔を合わせたのは約20年前だし、多分、ちゃんと口をきいたのは、それこそ私が小学生、彼が社会人なりたてくらいの頃に遊んでもらって以来だと思う。

 手広く仕事をして、人脈や交友関係も広かった叔父の葬儀には多くの人が参列していた。お通夜に500人、葬儀に200人と、延べ700人以上の人が参列したという。彼の仕事ぶり、そして仕事を離れた姿、初めて聞くそれらのエピソードを聞いては、年と共に疎遠になってしまったけど、大人になったからこそ、じっくりと話をしてみたかったなと思った。あの世というものがもしあるならば、そこでいつかそうしたいなと思ったし、焼香しながら、そう心で語りかけた。

 不謹慎だが、通夜、葬儀に両日ともに参列している、やたら小顔でキレーな人が目についた。よーく見ると、何と某有名芸能人だった。葬儀の時は、親族以外の参列者席の最前列で泣いていたので、何で??と親族の一部がざわついていた。私は、もしや愛人だったのか!?…とか妙な勘繰りをしてしまったのだが(叔父貴、スマンw)、後にわかったのは故人の親友の奥さんだとかで、夫婦で参列していたと。生前は家族ぐるみで仲良くしていたらしい。


 焼き場に入れられて約一時間。叔父は白い骨だけになった。闘病していたからか、やたらと骨の量は少なかった。

 参列者が二人ひと組で骨をひとつづつ骨壷に納め終わると、斎場の係員は、残った骨をガラガラと箸で仕分けしながら摘み、喉仏、顎、歯などを参列者に淡々と説明し、それらを骨壷に収めて行った。細かく粉状に砕けた部分はヘラのような金属でかき集められてザーッとまとめて骨壷に入れられた。60数年、叔父の精神を支え続けた肉体は、あっという間に、真っ白いただの炭素になった。係員にそんなつもりはないだろうが、ただただモノが収納されている、そんな風に見えた。

 今まで何度か葬儀は経験したが、毎度、肉体の無くなった骨を見ると不思議な気持ちになる。どんな人生を歩んでこようと、どんなふうに喜怒哀楽を経験していようと、何年生きてこようと。たかだか数十分で、等しく、ただの白い骨になる。重さにして数キロの炭素。残るのはそれだけだ。残せるものは自分が得たものではなく、他人に与えたものだけ、と最近どこかで読んだ。確か三浦綾子の言葉だったと思う。それがまさに実感と共に、目の前に突きつけられる。

 そこから生まれてくる感情というのはうまく整理できない。単純な悲しみではない。虚しさなのか、潔さなのか。毎度ながら、極めて身軽になってしまった故人たちの姿を目の当たりにすると、何とも言えない感覚になる。…どうせいつかはちっぽけなホネのカケラになる。先達たちは毎回厳しい事実を身をもって見せつけてくれる。しかし、その度に生じる、ではどう生きてゆけばいいのだろうか、という問いには未だ答えが出ない。


 さて、そんなことを神妙な顔をして考えていながらも、どこからかめちゃくちゃいい匂いがしてきて、思わず鼻をスンスンしてしまった。ふと気がつくと、目の前に同じく遺骨を見つめる某芸能人が…。彼女からめちゃくちゃ良い匂いがしてくるのだwwイカンイカン、と思いながらも、思わずこっそりと鼻息が荒くなってしまったのは私の不徳の致すところであるww 叔父貴、こんな時にマジですまん!…焼きたてホヤホヤのこんな場面でも発動してしまう私のオス…男の悲しい性(サガ)だぜ…。


 さて、少なくとも、もう私は人生の中盤以降には居るはずである。そろそろ己の生き方の指針、自分なりの目的意識をしっかりと見定めたいものだ。すなわち、何のために、どのように生きるのか、と。エロいことばっか考えてないでねwww …そんな自問自答の一助になるかと(タイトル的に)、先ほど、録画しておいた宮崎駿監督作品の「君たちはどう生きるか」を見てみましたけど、わけわかんなかったっすねwwwシュールの極みというか、マジで意味不明でした!あれはアニメ映画という大衆芸術の在り方としてどうなんですかね??私の理解力、想像力が不足してるのかも知れんけどw


 今回の葬儀では、色々と考えさせられたし、もう会うこともないかなと思っていた親戚たちとも旧交を深めることができた。それもこれも変な話、叔父のおかげだ。ありがとう。合掌。