今回は個別の選手にスポットをあてた特集をお送りしたいと思います。
昨シーズン世田谷スタジアムの電光掲示板に1度も彼の名前が出てくることはなかった。
その選手の名は、37年度ドラフト1位入団の源生内野手だ。
彼は社会人時代に肩を壊してしまい、守備は出来ないが長打も打てる堅実な打撃に俊足と打撃に関して言えば「天才」と謳われてきた。
FROGオーナーも世田谷キングダム初代監督根村氏との就任交渉の際にこのように発言している。
「このチームの攻撃陣の中心は源生で行く。源生を中心のチームつくりをお願いしたい。」
このように彼は世田谷キングダム創設についてはスター候補生だった。
世田谷1年目は.326 22本 61打点 18盗塁と期待に応えてた。
しかし翌年は、極度のスランプにより.227 5本 26打点 8盗塁という結果でシーズンを終えた。
このシーズン、根村監督(当時)は2軍に落とそうとしたが、オーナーの移行で1軍の試合に出て続けた。
この軋轢が翌年の前半終了時に監督解任発表を招くきっかけになった。
そんな源生安泰の状況に終止符を打ったのが現監督広川氏である。
彼は就任依頼でFROGオーナーと会談の際にこう言い放った。
「オーナー、強いチームとは競争から生まれるものです。今の現状では世田谷が強くなることは皆無でしょう。源生を使う使わないはオーナーが決めることではなく、本人が結果を出し、監督が決めることなのです。」
この言葉で彼の待遇は一変した。広川政権1年目は開幕スタメンを奪ったもののシーズン途中で2軍落ち。
39試合 .266 2本 7打点 5盗塁と過去最低のシーズンとなった。
そして昨季は2軍で登竜門でさえも結果を出せずに1度も1軍の打席に立つことはなかった。
「今シーズンダメなら終わりということわかっています。監督も今回オープン戦メンバーにいれていただき感謝しています。それと同時にダメなら次はないってメッセージだとおもうのでガムシャラに野球に打ち込むだけです。」
源生は天才とは決別し、ラストチャンスをものにするための運命のオープン戦が始まろうとしている。
そしてもう一人は同じ世田谷キングダム初年度に活躍した選手がユニフォームを脱いだ。
38年度ドラフト4位入団の古渡投手だ。
彼は世田谷初年度39年度 50試 4勝1敗0S 3.66と崩壊していた世田谷中継ぎ陣を一人で支えていた。
「当時は、試合で投げることが楽しくてしょうがなかったですね。正直、怖い打者は一人も居ませんでした。シーズンを終えて周りの新人の成績を見ても、確実に僕が新人王だって確信持ってましたよ。」
しかし、運命も非常なもので39年度シーズン新人王は該当者なしだった。
古渡は活躍度はトップだったが基準を満たしていなかったのだ。
「ショックでしたよ。中継ぎなんてそんなもんかって思いましたね。だから次は見返すつもりでいつも以上にトレーニングを積んでいたら肘に違和感を感じたんです。でも、当時は僕がいないと来年のチームはどうなってしまうと思い痛くないフォームにかえました。」
そのフォーム改造が彼の野球人生を狂わした。40年度シーズン前半で彼は1軍ブルペンから消えた。
成績は31試 3勝1敗0Sと昨年と変わりないが防御率が8.00と出れば打たれる状況になっていた。
翌年も登竜門でも防御率7.71と結果がだせず、肘の痛みと戦っていた。
いいかげん庇え切れなくなった肘にメスをいれる覚悟を決めたが医師の出した診察は
「メスを入れれば来年1年はリハビリ期間、その後は1軍で通用する球を投げれることはむずかしいかもしれない」
古渡はそれでもメスをいれ41年度はリハビリに費やした。
42年度シーズンに彼は登竜門のマウンドで投げた。
17試合に登板し2勝1敗1S 4.32と結果はそれなりにだしたが、1軍では華房、川江、関沢、藤門とリーグ屈指の中次ぎ陣となり古渡に居場所はなかった。
このシーズンを最後に自由契約となり、そのまま引退した。
「新人王を獲れなかったけど、自分が過ごしたプロ野球人生はは僕らしくて満足ですよ。球を投げられない辛さを知っているので球を投げられるということだけで今は幸せです。」
そう彼は今シーズンキャンプから2軍投手コーチ補佐兼打撃投手として世田谷に残った。
プロ野球選手としての人生は終わったが古渡の挑戦はおわらない。
昨シーズン世田谷スタジアムの電光掲示板に1度も彼の名前が出てくることはなかった。
その選手の名は、37年度ドラフト1位入団の源生内野手だ。
彼は社会人時代に肩を壊してしまい、守備は出来ないが長打も打てる堅実な打撃に俊足と打撃に関して言えば「天才」と謳われてきた。
FROGオーナーも世田谷キングダム初代監督根村氏との就任交渉の際にこのように発言している。
「このチームの攻撃陣の中心は源生で行く。源生を中心のチームつくりをお願いしたい。」
このように彼は世田谷キングダム創設についてはスター候補生だった。
世田谷1年目は.326 22本 61打点 18盗塁と期待に応えてた。
しかし翌年は、極度のスランプにより.227 5本 26打点 8盗塁という結果でシーズンを終えた。
このシーズン、根村監督(当時)は2軍に落とそうとしたが、オーナーの移行で1軍の試合に出て続けた。
この軋轢が翌年の前半終了時に監督解任発表を招くきっかけになった。
そんな源生安泰の状況に終止符を打ったのが現監督広川氏である。
彼は就任依頼でFROGオーナーと会談の際にこう言い放った。
「オーナー、強いチームとは競争から生まれるものです。今の現状では世田谷が強くなることは皆無でしょう。源生を使う使わないはオーナーが決めることではなく、本人が結果を出し、監督が決めることなのです。」
この言葉で彼の待遇は一変した。広川政権1年目は開幕スタメンを奪ったもののシーズン途中で2軍落ち。
39試合 .266 2本 7打点 5盗塁と過去最低のシーズンとなった。
そして昨季は2軍で登竜門でさえも結果を出せずに1度も1軍の打席に立つことはなかった。
「今シーズンダメなら終わりということわかっています。監督も今回オープン戦メンバーにいれていただき感謝しています。それと同時にダメなら次はないってメッセージだとおもうのでガムシャラに野球に打ち込むだけです。」
源生は天才とは決別し、ラストチャンスをものにするための運命のオープン戦が始まろうとしている。
そしてもう一人は同じ世田谷キングダム初年度に活躍した選手がユニフォームを脱いだ。
38年度ドラフト4位入団の古渡投手だ。
彼は世田谷初年度39年度 50試 4勝1敗0S 3.66と崩壊していた世田谷中継ぎ陣を一人で支えていた。
「当時は、試合で投げることが楽しくてしょうがなかったですね。正直、怖い打者は一人も居ませんでした。シーズンを終えて周りの新人の成績を見ても、確実に僕が新人王だって確信持ってましたよ。」
しかし、運命も非常なもので39年度シーズン新人王は該当者なしだった。
古渡は活躍度はトップだったが基準を満たしていなかったのだ。
「ショックでしたよ。中継ぎなんてそんなもんかって思いましたね。だから次は見返すつもりでいつも以上にトレーニングを積んでいたら肘に違和感を感じたんです。でも、当時は僕がいないと来年のチームはどうなってしまうと思い痛くないフォームにかえました。」
そのフォーム改造が彼の野球人生を狂わした。40年度シーズン前半で彼は1軍ブルペンから消えた。
成績は31試 3勝1敗0Sと昨年と変わりないが防御率が8.00と出れば打たれる状況になっていた。
翌年も登竜門でも防御率7.71と結果がだせず、肘の痛みと戦っていた。
いいかげん庇え切れなくなった肘にメスをいれる覚悟を決めたが医師の出した診察は
「メスを入れれば来年1年はリハビリ期間、その後は1軍で通用する球を投げれることはむずかしいかもしれない」
古渡はそれでもメスをいれ41年度はリハビリに費やした。
42年度シーズンに彼は登竜門のマウンドで投げた。
17試合に登板し2勝1敗1S 4.32と結果はそれなりにだしたが、1軍では華房、川江、関沢、藤門とリーグ屈指の中次ぎ陣となり古渡に居場所はなかった。
このシーズンを最後に自由契約となり、そのまま引退した。
「新人王を獲れなかったけど、自分が過ごしたプロ野球人生はは僕らしくて満足ですよ。球を投げられない辛さを知っているので球を投げられるということだけで今は幸せです。」
そう彼は今シーズンキャンプから2軍投手コーチ補佐兼打撃投手として世田谷に残った。
プロ野球選手としての人生は終わったが古渡の挑戦はおわらない。