【土岐定政の系譜 ⑧】

 

 

 

 「天正二年四月、遠江国土井城をせめたまひ、軍を御倉山にかへさる。ときに城主天野宮内右衛門景貫をひきたり、国中の凶徒等を催し、其岳山にそひ峰をわたり、前を遮りしりへを襲ひ味方の備へ殆乱れんとす。定政馬をかへして追いくる敵とたたかひ、首十三級を得たり。」(「寛政重修諸家譜」)

 

 「天正2年(1574年)4月、家康が遠江国の土井城を攻め、軍勢を御倉山へ引き揚げたときのことである。城主の天野宮内右衛門景貫が、国中の凶徒を呼び集めた。彼らはその岳山に沿って尾根を渡り、味方の前方を遮り、後方から襲いかかってきたため、味方の陣列はあやうく混乱をきたしそうになった。定政は馬で引き返すと追いすがる敵と戦って、首級十三を挙げた。」

 

 天正2年4月、家康は武田勝頼に属していた遠江国周智郡の犬居城(土井城)の天野景貫を攻めた。しかし、峻険な山岳と悪天候に阻まれ、御倉山までの撤退を余儀なくされたのである。

 

 山道の撤退戦において、景貫は地元の勢力を集めて山峰から挟撃を仕掛けてきた。徳川軍が挟撃にあい陣列が崩れかけた時、定政が取って返して敵を食い止め、自ら首級13を挙げて味方の潰走を防いだという。

 

 9月になると勝頼の軍勢が天竜川を越えて侵攻してきた。家康は忠勝に近侍三人を付けて斥候に出したのである。

 ところがいつまでたっても帰ってこない。心配になった家康は、定政に様子を見てくるように命じた。定政は直ちに馬を馳せて、現地に赴いたのである。

 

 すると忠勝一行は、近侍の一人の馬が疲れてしまい、進むことができなくなっていたという。そこで定政は一旦陣に戻るべきだと思い、忠勝らと引き返そうとした。すると、どこからともなく多くの敵兵が現れ、定政らはたちまち囲まれてしまったのである。

 

 定政はすぐに敵をつき崩し、囲みを破ったので、忠勝等と共に無事本陣へ帰還することができた。

 

 「九年遠江国高天神の城を攻落したまふのときも、敵数多を討取、このとし御麾下の士上村小左衛門忠国を附させらる。のち遠目坂にをいて持船の城兵と合戦し、軍功あるにより駿河国長沼郷を賜ふ。」(「同上」)

 

 「定政は天正九年に遠江国の高天神城を攻め落したときも、敵を数多く討ち取った。この年、旗本の上村小左衛門忠国を配下した。

 その後、遠目坂において持船城の城兵と合戦し、軍功を挙げたことによって、駿河国長沼郷の地を賜った。」

 

 高天神城の戦いは二度ある。

 一度目は天正2年(1574年)勝頼率いる2万5千の武田軍と城主・小笠原信忠(1千)の戦いである。

 

 5月、勝頼は高天神城を包囲した。同時に山県昌景(5千)ら北から三河に侵入してきた。寡兵の家康は信長に援軍を依頼したのである。ところが、信長の援軍は遅々として進まず、6月14日にようやく三河国吉田に到着したのであった。

 

 6月18日、高天神城では、長引く籠城に耐え切れず援軍が来ないまま、長忠は武田方に降伏したのである。家康が援軍を出せなかったことは、国衆達に深刻な影響を与えた。徳川家への信頼は、まさに地に落ちたのであった。

 

 

高天神城