大僧正天海 (314)

 

 

 

 さて、最近の風潮では「鎖国」という言葉を見直すべきだ、との意見が多いと聞く。

 「鎖国」という言葉は、江戸時代初期にオランダ商館にいた博物学者・エンゲルベルト・ケンペルが著した「日本誌」に由来するという。

 

 これを江戸時代後期の蘭学者・志筑忠雄が翻訳し、「鎖国論」と題名を付けたというのである。だから少なくとも幕府が公式に「鎖国」という言葉を用いたことはない。

 

 「鎖国」という言葉からは、「①日本が完全に外国との交流を断った。②外国人も日本人も一切の出入りを禁じた。」という印象を受ける、というのである。

 

 しかし、現実には「①オランダ中国とは長崎で貿易が続いていた。②朝鮮王朝とは対馬藩を通じて交流があった。③薩摩藩は琉球王国を通じて海外との交易があった。④松前藩は蝦夷地でアイヌとの交易があった。」のである。

 

 そこで「従来の鎖国のイメージを払拭するため、幕府の外国政策の統制強化と理解すべきである。」との主張である。

 

 さて、少なくとも私は学校で「鎖国政策」を習って以来、鎖国を「完全に国を閉ざした政策」だと思ったことは一度もない。学校の教師は、長崎の出島琉球の交易等を正しく教えている。

 このような議論を聞くと「日本が完全に外国との交流を断った、と理解するのは、どのような人なのだろう。」と考えてしまう。

 

 そもそも歴史に関心のない人を対象に「用語」を変えても、意味があるのであろうか。

 そういえば「踏絵」を「絵踏」に変えたのも、なんだか屁理屈のような話である。こういう「言葉遊び」は、どうにも本質からずれているように思う。

 

 「無明住地煩悩

 無明とは明らかになしと申文字にて候。迷を申候。住地とは止まる位と申文字にて候。仏法修行に五十二位と申事の候。その五十二位の内に、物事に心の止まる所を住地と申候。住は止まると申義理にて候。止まると申は何事に付いても其事に心を止るを申候。」(「不動智神妙録」沢庵宗彭)

 

 長年の相談相手であった天海に代わり、家光は次第に沢庵宗彭に心酔するようになる。

 家光偉大な祖父・家康厳格な父・秀忠の跡を継ぎ、徳川家を守るために、絶えず重圧を負いながら生き続けてきた

 絶対的な権力者である家光にとって、周りにいるものは、権力に阿るだけの人物に見えてしまうのであった。

 

 家光武道を好み、その指南役が柳生宗矩である。

 宗矩は「何ものにも心を留めず、物事に囚われない心こそが、無心である。」と説いた。それこそが沢庵の教えであった。

 

 家光は「紫衣事件」で権力に阿ることなく流罪となった沢庵に興味を抱く。沢庵を救うため宗矩堀直寄、天海までもが、奔走したのである。

 ところが沢庵は流罪が赦されると、すぐにでも故郷の但馬に帰ろうとする。家光の権力を利用したり、褒美を求めたりしないのであった。

 

 家光沢庵為人を見て、ますます心惹かれていく。権力者である家光の孤独な心には、沢庵の説く禅の教えを必要としていたのであろう。家光沢庵江戸にとどめておくため、広大な「万年山東海寺」を建立するのであった。

 

 さて、冒頭の「不動智神妙録」は、沢庵が宗矩に宛てた全三巻の書簡である。沢庵は「人が本来の力を発揮できず、失敗するのは、心が何かに囚われているからだ。」と説いているのである。