大僧正天海 (274)

 

 

 

 「志士仁人は身を殺して仁をなすことあり。それは生死は天なり命なり。生をおしみ身を全うするは、君子の恥じる所、危きを見て命致すは、君子の取るところなり。かの人歿するといえども、莞爾として生けるが如し。」(「碑文」林信篤)

 

 「高い志と仁徳を持った者は、自らの命を犠牲にしてでも、人としての仁を全うすることがある。なぜなら、生死は天の意志であり、運命だからだ。

 命を惜しんで生きながらえようとするのは、君子として最も恥じるべきことである。危難を前にして命を投げ出すことこそが、君子の選ぶべき道である。だからこそ、その人は亡くなっても、微笑みを浮かべて心の中で生き続けているのである。」

 

 これは、板倉重昌の記念碑に刻まれた林信篤(初代大学頭)の賛辞(一部)である。第一次征討使として運命に殉じた重昌を称えている。

 

 1月2日、石谷十蔵寺沢家、黒田家、島津家に援軍を求めた。それほど第一次征討軍は傷つき、疲弊していたのである。

 

 この日、松平信綱らは佐賀寺井にいて、重昌戦死を知った。

 

 「それは、まことか。」と副使・戸田氏鉄は明らかに動揺して、思わず目を剥いた。まさかそのようなことになるとは、夢にも思わなかったのである。

 

 信綱は「そうか、それは残念なことをした。内膳殿には色々教えてもらえるものと思っていたのに。」と至極冷静であった。

 信綱重昌が切れ者であることをよく知っていたのである。職務を全うする上で、是非にも残っていて欲しい人物であった。

 

 これがもし阿部忠秋(老中)ならどうかと、つい私は考えてしまう。忠秋なら重昌の心情を思い、涙したかもしれない。これが二人の差であろう。

 

 1月4日、信綱は新たな上使として4千の兵を率いて有馬に到着した。これ以降、将軍から白紙委任を受けた老中・信綱の率いる軍を「幕府軍」とする。

 

 信綱と氏鉄は、諸藩から詳しくこれまでの経緯と事情を尋ねた。そして原城の城構えを見て、これがただの百姓一揆ではないことを知ったのである。

 

 「それにしても、百姓どもはどうしてこれほどの武器弾薬を手に入れたのか?」と信綱は尋ねたが、これには誰も返答できなかった。

 「代官所一部の武器庫を襲ったくらいでは、これほどの鉄砲を揃えることなどできまい。」という疑問である。

 

 これについて色々調べてみると、有馬の家臣が次のような説明をした。

 「これはかつて南蛮の宣教師が、この地を耶蘇教の国に作り変えようと九州の島々に多くの武器を隠匿したためです。特に天草は手ごろな大きさだったので、時の領主であった小西に頼み込み、耶蘇教の拠点にいたしました。

 ゆくゆくは、ここをマカオルソンのように、日本や支那の侵略拠点にするつもりであったのです。お取り潰しの後、小西の牢人たちは素性を隠し、いつか切支丹一揆を起こそうと密かに武具を備えていたと思われます。」

 

 多くの百姓一揆は、武具が揃わず指導者もいないまま鎮圧されてきた。しかし、ここには、充分な武具と指導できる牢人どもが揃っていたのである。

 

 「なるほど、これは一揆というより切支丹との戦争と考えるべきであろう。」と信綱は結論付けたのである。

 

板倉重昌碑