大僧正天海 (266)
「天草の徒党ども明けしりぞき、居り申さず候につき、島原へ御人数つかわさるべしと肥後様(細川光利)より、仰せただされ候。その上にて、御越し候の儀ご無用と仰せられ候はば、御了簡なき儀に候。」(「綿考輯録」)
「天草の一揆勢はすでに撤退し、どこにもいないので、我らは島原へ軍勢を出すべきであると細川光利から仰せがあった。
それなのに上使から『来るには及ばぬ』といわれては、こちらの忠義をご理解いただけていないということだ。」
細川光尚(光利は初名)は、1万6千人を率いて、勇んで天草に渡ったが、一揆勢は既に島原に移った後であった。
光尚はすぐにでも島原に渡り、有馬に加勢に行こうとしたが、上使である板倉重昌に断られたのである。細川軍はやむなく熊本に帰還したが、口惜しくて仕方なかった。
「上使らは我らの忠義を分かっていない。」
府内目付に出兵を禁じられ、今度は上使に加勢を断られる。細川家の鬱憤は溜まるばかりであった。
ところが数日後、上使の方から加勢の依頼が来た。細川家に命じられたのは、海上警備であった。
そこで光尚は、兵450人を軍船30艘に乗せ、原城に向けて出発させたのである。
これを見ても当初、重昌が一揆勢を甘く見ていたことが分かる。
「一、今度切支丹徒党を御誅伐のため、島原表に出向いたさる家中の面々、両人の指図に任せらるべき事。
一、両人の下知なく取りかかるの儀かたく停止、もし、みだりに先駆けの輩これにあるにおいては、落度たるべき事。
一、喧嘩口論ならびに濫妨狼藉、停止の事。
石谷 十蔵
板倉内膳正 」(「島原原之城兵乱之記」)
12月17日、重昌はあらためて、陣中法度を発出した。これは、先の合戦で上使の命令がないまま、戦闘が始まったことに対する戒めである。
また、同時に近々、総攻めが実施されるという前触れでもあった。
12月20日、征討軍は第二回原城攻撃を開始した。この日、島原には雪混じりの雨が降っていた。
先陣は、立花忠茂であった。
上使の命令は午前6時開戦であったが、気が急いたか2時間早く、まだ夜も明けきらぬ午前4時に三の丸に向けて開戦したのであった。
ところが、この総攻撃を一揆勢は事前に知っていたようである。三の丸には有家監物以下、3500人が守りを固めていた。立花軍が石垣に攻めかかると、頭上から弓や鉄砲で応戦した。それでもよじ登る敵には石や材木を投げ落とした。この戦いで立花軍は430人の死傷者を出したという。
一方、鍋島軍は天草丸に攻め掛かった。天草丸には本戸但馬、上津浦三郎兵衛らを頭に天草の郷民2000人が詰めていた。
鍋島軍の鉄砲隊は遠方から撃つので、さっぱり当たらなかった。この様子を見た重昌は「こぬるき者ども」といって吐き捨てた。
鍋島軍は石垣を上ることも出来ぬまま、350人の死傷者を出して撤退したのであった。
