大僧正天海 (176)

 

 

 

 

 さて、ここで家光政権主な閣僚を整理しておこう。年齢は寛永10年(1633年)の時点である。

 

 〇 酒井雅樂頭忠世(62歳)…文字通り重鎮である。忠世は剛直な人間であり、家光はいささか苦手であった。

 ある日、秀忠は「将軍は雅樂が嫌いなようであるが、あれは神君(家康)以来の忠臣で政事の熟練である。気に入らないのはそなたの我慢が足りないからだ。」と注意された。

 それを聞いた忠世は、「これでは、ますます嫌われる。」と恐縮したのである。

 しかし、家光忠世を呼び出すと「大御所からお𠮟りを受けた。これまで済まなかった。これからも遠慮なく意見してくれ。」といった。

 

 〇 土井大炊頭利勝(61歳)利勝の生い立ちは既に書いた。頭脳は明晰で才智に富んだ優秀な政治家家光の信任も厚く、実質的に老中筆頭である。

 

 〇 酒井讃岐守忠勝(47歳)…長老二人に続く重要な政治家家光は「我が右手は讃岐、我が左手は伊豆。」と述べた。ある日、家光が高禄を打診したが、「大禄を食めば驕りが生じる。」として辞退した、という。

 

 〇 稲葉丹後守正勝(37歳)春日局の実子家光の小姓となり、すぐに小姓番頭に出世する。

 さらに書院番頭となり1500石を与えられる。家光が将軍になると、27歳の若さで老中となっている。まさに目を見張るような異例の出世である。

 寛永元年(1624年)には常陸国真壁1万石を与えられ諸侯に列した。翌年には1万石を加増され、父・正成が亡くなると遺領を継ぎ、4万石の大名になった。

 この背景には、もちろん家光・春日局の引き立てもあったが、本人の能力も高く、重要な局面には必ず登場していた。

 後に相模国小田原8万5千石に抜擢され、江戸防衛の重要拠点・「箱根の関」を担当する。その直後、小田原に大地震が起きて、小田原城等は壊滅的被害を受けたのである。

 

 〇 内藤伊賀守忠重(48歳)秀忠に仕え、家光の傅役となった。

 寛永元年(1624年)から、老中であったというが、寛永10年には老中を退いた。これまでの功績から志摩国鳥羽2万石を与えられた。

 

 〇 永井信濃守尚政(47歳)本多正純改易後、老中に抜擢された。

 寛永3年(1626年)下総国古河8万9千石を相続。寛永10年に老中を解任されたが、功績により山城国淀10万石に加増転封した。

 

 〇 松平伊豆守信綱(38歳)…生い立ちは、すでに書いている。

 寛永10年六人衆に抜擢され、程なく老中となる。

 

 〇 阿部豊後守忠秋(31歳)…こちらも紹介済み。

 寛永10年六人衆に抜擢され、5月老中格となる。

 

 〇 堀田出羽守正盛(25歳)春日局の義理の孫で生い立ちは紹介済み。

 家光の寵臣として異例の出世をし、寛永10年の六人衆に抜擢される。

 

 〇 板倉周防守重宗(38歳)重宗は正式に老中あるいは老中格になった記録はない。

 しかし老中奉書に連署するなど、当時の京都所司代は老中並の権威があったと思われる。

 ただし、重宗以降は老中配下の役職となっている。

 

酒井雅樂頭忠世