大僧正天海 (175)
【稲葉正勝】
「(寛永十年五月三日)大番組頭も此後番頭と共に臨時に拝謁すべしと命ぜられ、旗奉行中山勘解由照守、大久保彦左衛門忠教、鉄砲頭山田十大夫重利、弓頭大田善大夫吉政も、時々まうのぼるべしと仰付けらる。これ皆戦場をへし古老の者なればなり。」(大猷院殿御實紀)
「(寛永十年六月廿五日)夜中旗奉行大久保彦左衛門忠教召れ御閑談時をうつす。」(「同上」)
幕府では役方(事務方)が重用される一方で、番方(軍事)は次第に影が薄くなっていった。そこで、家光はかつて戦場を駆けた老将たちに、時々顔を出すように命じたのである。
この「大久保彦左衛門忠教」は講談で有名な「天下の御意見番」の大久保彦左衛門のことである。
忠教は永禄3年(1560年)の生まれで、この時すでに64歳であり、とうに隠居してもおかしくない年齢であった。
大久保忠員の八男として生まれ、忠世、忠佐、忠長らは異父兄である。初陣は武田家領であった遠江侵攻であったという。
その後も、第一次上田合戦、小田原征伐、第二次上田合戦と参戦し、大坂の陣では、槍奉行として従軍した。この時の知行は、2千石である。晩年には「三河物語」を記している。
「又明年御上洛あるべき旨、諸有司に命ぜらる。」(「同上」)
家光は来年、上洛することを決断し、関係者に通知した。老中・松平信綱、大目付・井上政重、柳生宗矩に各駅の旅館並びに道路を巡察するように命じたのである。
「(寛永十年七月)十七日東叡山にならせ給ひ、長袴めして、御宮に御参あり。天海が坊に渡御なりて、天海に時服、銀賜はり。そのほか年老たる出家等に銀を下さる。(「同上」)
家光が正装で東叡山寛永寺を訪問した。天海の坊(住居)を訪ね、「時服と銀」を与えた。他の長老たちにも銀を与えている。
天海はお礼に御膳を用意し、猿楽を催した。題目は「邯鄲」「清経」「千尋」「橋弁慶」「猩々」を喜多七大夫が一人で演じたという。
家光は、さらに儒学者・林羅山の忍岡の学寮に立ち寄り、先聖殿に入って聖像を拝した。さらに羅山の「尚書堯典」の講義を受けている。
「尚書堯典」とは、儒教の基本的な経典である「四書五経」の一つの篇である。伝説上の賢王・堯王の理想的な政治と、舜王への禅譲の様子を描いる。儒教の政治思想において最も重要な内容であった。
18日に、天海は毘沙門堂公海、増上寺方丈了学を連れて、御座所を訪れ、家光に拝謁した。家光からは黒木書院に招かれている。
「(寛永十年七月十八日)この日各所に高札を建らる。人売買一切停禁す。もし違犯せばその軽重にしたがひ、あるは斬罪、繋獄、あるは贖銭たるべし。」(「同上)
7月18日、幕府は高札を建てた。内容は「人身売買の禁止」「奴婢の年期は10年以内」「駅馬駄賃の荷物は一駄40貫目まで」「人馬の御朱印毎駅拝謁」「定外賃銭を貪ってはならない」等、高札の旨に背くものは曲事(犯罪)である、とした。
大久保彦左衛門忠教
