南光坊天海 (183)
【元和偃武】
「五月十五日、公家衆門跡、二条城ニ抵リ、家康ニ謁見ス、是日、二条城ニ天台宗ノ論議アリ」(「大日本史料」)
家康が二条城に戻ると、公家門跡が次々と謁見に来た。家康は根気強く応対するも、疲労は隠しようもない。
15日、家康は久しぶりに天台宗論議を聴聞した。精義は南光坊天海であり、聴聞は公家など多数である。天海は、夏の陣に参陣したという、記録は見つからない。上皇の院に入り浸っていたようである。
「いい気なものだ。」と家康は内心不満であったが、天海には天海で悩みがあったようである。
「いささか、院とかかわりすぎましたか、帝のご機嫌を損ねてしまいました。」と困惑して言う。
「そうかそうか。」と家康は楽しそうに頷いた。
「結局のところ、オレは最後まで、鬼にはなり切れなかった。その点、御所は我が子であっても容赦がない。オレにはとても真似できん。」と家康は言う。
今度は天海が楽しそうに、「それはよろしいのではないですか。多くの人々が大御所様をお慕いするのは、その鬼になり切れない慈愛があるからでございましょう。」というのだ。
「まぁ、そういう考えもあるか。」と家康は苦笑いした。
「この度の戦は、数万のものが命を落とした。これからさらに、多くの人々を処分せねばならない。六条河原では毎日多くの斬首が行われている。分かってはいても気が重い。僧正、しばらくは天台宗論議を重ねるから、覚悟せよ。ところで、大坂方に縁者はいるか。今の内なら話を聞いておくぞ。」と家康は言うのだ。
天海は、居住まいを正すと、「御一方だけお願いいたしたく存じます。」と頭を下げた。
「織田昌澄は、我主・日向守(光秀)の孫にございます。ひと時、藤堂伊豆守殿にお仕えしましたが、その後、豊臣家に仕え、この度の御陣を迎えました。伊豆守殿とは大坂で干戈を交えたと聞いておりますが、もしお許しいただけるのであれば、願ってもない悦びでございます。」
「そうか、日向守殿の孫か、だが、これは与右衛門の許しを受けねばなるまいな。」と家康は頷いた。
「織田昌澄
或 信重 庄九郎 三左衛門 剃髪號 道半斎 主水 母は光秀が女
文禄元年三月豊臣太閤朝鮮征伐のとき藤堂佐渡守高虎は父信澄が旧識たるをもって高虎にしたがひ朝鮮にいたり、のち京師に閑居し、其のち豊臣秀頼につかふ。元和元年大坂城に籠り、天満口にをいて藤堂高虎にむかひ接戦し、軍功をありはし、秀頼より国光の刀、獅子紋の鞍、陣羽織等をあたへられる。」(「寛政重脩諸家譜」)
昌澄の父は、織田(津田)信澄である。信澄は、まだ幼児の頃に信長によって父を殺され、柴田勝家に育てられた。
天正3年(1575年)に近江の磯野員昌が、織田家に恭順すると養嗣子として、送り込まれた。
天正6年(1578年)、員昌が高野山へ出奔したため、その所領・高島郡を与えられ光秀の縄張りで大溝城主となっている。この頃、昌澄(母は光秀の娘)が生まれた。信澄は果敢な性格で、信長の信任が厚かったようだ。
四国征伐に参加するため、大坂城にいるときに、本能寺の変がおこり、丹羽長秀、神戸信孝に光秀との共謀を疑われて、千貫櫓で自害させられた。
当時まだ3歳であった昌澄が、その後どうなったかは、よく分からない。ただ、高虎が大溝城時代に信澄に仕えていた縁もあり、藤堂家の武将となっていたようである。朝鮮の役でも活躍したという。
大溝城天守閣遺跡
