南光坊天海 (180)
「十日、家康、諸大名ヲ二条城ニ引見シ、紀伊和歌山城主・越前北庄城主松平忠直等ノ戦功ヲ賞ス。」(「史料綜覧」)
5月10日、諸大名が二条城に集まり、戦勝を祝した。家康と秀忠は諸大名の勲功を褒賞したのであった。
家康は、松平忠直・忠昌・直昌の功を激賞し、副刀「高木貞宗」と畫幅「牧渓ノ筆」、「初花の茶壺」を与えた。また家老の本多富正・成重、萩田主馬助にも茶器や刀を与えた。さらに主馬には、与力分として一万石加増した。
また、浅野長晟の樫井の戦功を賞し、上田宗箇等に刀を与え、宗箇が関ケ原で西軍に属した罪を赦した。
「廿一日、伏見の農民、秀頼の男子国松丸が橋下に忍びいたるとて捕へてうたへ出る。」(「台徳院殿御實紀」)
秀頼の子・国松丸については諸説ある。
大野治房が国松丸を奉じて大坂城から逃れたが、賊が治房の路銀を狙って襲って殺し、その金を奪った。
国松丸はその後、橋の下などに忍び隠れていたが、伏見の農民がこれを憐れみ、食べ物を与えた。
「これはただ者ではない。」と思った農民は、「父の名は何というか。」と尋ねると「上様。」と答えた。「これは大坂の若君に相違あるまい。」と思い、役人に訴え出たという。
また別の説では、秀頼の側室の子であったため、徳川家を憚り、常高院のもとに預けられたという。大坂の陣が始まると、露見し人質になることを恐れ、大坂城内に迎え入れた。落城の折、乳母に抱えられ逃げ落ち、京都の商人に匿われたが、商人に怪しまれ、役人に差し出されたという。
国松丸は京都所司代・板倉勝重に引き渡され、二条城の秀忠のもとに連行された。年端もいかぬ者であれば、何とか助命しようと周囲のものは、言いつのったが、評議の結果、逆徒の主将の男子なれば、死罪は免れ難かった。
5月23日、市中引き廻しの上、盛親らとともに六条河原で斬首となったのである。
「御家人 野間金三郞 小林多兵衛等兩人 伏見より二條近傍へ赴く途中 大佛邊に大野道犬 潜伏居る趣き 風聞開えけれバ 縛手を遺し 難なく搦取て 二條に送ける。」(「増補難波戦記」)
同じ5月21日、大野治胤(道犬)が京都の大佛(方広寺)で捕らえられた。治胤は夏の陣開戦時に堺の町を焼き尽くしている。
堺衆は治胤の身柄を引き渡すように、所司代・板倉勝重に求めた。
「かつて、平重衡が南都を焼討したとき、鎌倉殿は南都衆にその身柄を引き渡しました。その前例に倣い、治胤を御引き渡しいただきたい。」という。
勝重はこれを認め、治胤の身柄を堺衆に預けたのである。
重衡は、南都衆の東大寺の使者に連行されるとき、「妻・輔子に一目、会いたい。」という願いを聞き入れられ、涙ながらに愛妻と別れを告げた。
重衡が自らの髪を切り「形見」と手渡し、二人は「来世でも同じ蓮の上」でと誓い合った。
重衡は、木津川の畔で斬首されたが、輔子は南都衆から遺骸を貰い受け、荼毘に付して墓を建てたという。
ところが、6月27日、堺衆は、治胤を火あぶりの刑に処した。
これを聞いた勝重は、「南都のものも、重衡をそのように処したのか。」と堺衆を諫めた。
初花の茶壺
高橋義雄 編『大正名器鑑』第1編,宝雲舎,昭12.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1263198 (参照 2025-06-02)
