南光坊天海 (176)
米倉権右衛門は、「この度のことは、すべて我ら乙名の仕出かしたことにて、全員腹を召しますので、何卒、秀頼公御母子のお命だけはお救いください。」とその場に額を擦りつけた。
千姫もまた「誠に申し訳ございません。何卒ご慈悲を。」と涙ながらに土下座をした。
『馬鹿を申せ。この度の戦で何万人のものが死んだと思う。それを今になって、秀頼の命を救えと申すか。己の孫の願いを聞き入れたとあれば、オレは、どうして藤堂や井伊等に顔向けできるのだ。』と家康は、怒鳴りつけたかった。そうすべきであったのだ。
しかし家康は、それを口にできなかった。家康も心のどこかに、豊臣家を救いたいという思いがあった。苦悩する家康は、「この度の戦の総大将は、御所だ。御所に頼んでみろ。」と漸く口にした。
『最後まで鬼になり切れない、オレは情けない奴だ。』と自身を罵ると、天を仰いだ。秀忠が、豊臣家を許すはずがないことを、よく知っていたのである。
千姫一行は、岡山の秀忠の陣を訪ねた。そこは茶臼山とは違い、氷のように冷たかったのである。
「千、お前は何故ここにいる。何故、秀頼とともに死なないのだ。徳川家から嫁いだ女として、あってはならぬ醜態であり、許しがたいことだ。」と罵倒したのであった。
正信は、悲嘆する権右衛門らを招き入れ、その労をねぎらい饗した。一行が眠りにつくと、密かに岡山の陣を離れ、茶臼山に参じた。
「秀頼母子の罪は、恕しがたいことではありますが、ここは温情を示し、大和を賜っては、如何でしょうか。」と請うた。家康は、しばらく考え込んだ。
「いや、大和はダメだ。それは今更認められない。ただ信濃のどこかなら、考えても良いが…。」と言った。
本丸は灰燼に帰し、多くの士卒は命を落とした。自ら入水するものも少なくなかったという。茶臼山本陣には戦勝を祝賀する多くの諸大名が訪れた。しかし、家康も秀忠も決して周囲の警戒を怠らなかったのである。
家康は本多忠政を召し、弟・忠朝の死を悼んだ。小笠原忠政の陣には使いを出し、父兄の死を慰めたのである。家康にしても、秀頼母子を赦すことは容易なことではなかった。
「八日、辰刻片桐市正且元使もて、茶臼山御営に、秀頼母子幷大野修理亮治長等股肱の徒、二丸帯曲輪に籠居するよし告奉る。」(「台徳院殿御實紀」)
この頃片桐且元は、咳病を患っていて、既に余命幾ばくもなかった。それでも夏の陣では、弟・貞隆とともに秀忠軍の先鋒として参陣していたのである。
且元は、秀頼主従が山里曲輪に隠れていること通報し、自らの命に代えて、母子の助命を秀忠に請うたのである。
家康は、山里曲輪を直孝に包囲させると、二位局を茶臼山に召した。そこで秀頼母子の助命について話し合ったのである。
「太閤以来の旧好を思うに、このままでは忍びない。素直に城を出れば命は助けよう。多少なりとも食邑を宛がうので降伏せよ。」と伝えた。
そこで家康は、直孝に命じて井伊家臣の近藤秀用を遣わし、大坂方の速水守之と交渉させたのである。秀用と守之は、問答を重ね、ついに母子が城を出ることに話が定まったのである。
北条誠 著『古城今昔 : 旅情を追って』,
秋田書店,1965.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988450 (参照 2025-05-30)
