南光坊天海 (72)
「今村、清水、林の三家司は、ひたすら自休に荷担し、中川出雲とて今の少将忠直朝臣戚族たりしをたぶらかし、但馬を罪せんとす。但馬の訴を非據なりとて、しばしば忠直朝臣に讒せしむ。本多竹島幷に牧野主馬の三家司は但馬に荷担し、一藩双方にわかれたり。(中略)よて本多以下の宿老ども、こたび免され其罪を糺されしが、本多罪なきにさだまり、其申所明白なりとて再び国勢をあづけられ、また富正が一族本多丹下成重を新に朝臣に附られ、今村掃部が領せし丸岡の城をたまひ、二万石領せしめらる。この成重は作左衛門重次が子なり。」(「台徳院殿御實紀」)
富正は家康から激しく叱責を受けたが、同時にその忠義を称賛され、「国中仕置」を命じられた。しかし竹島周防は牢に入れられたことなどを恥じて自害したのであった。
家康は越前藩の行く末を案じ、新たに本多成重を附家老に任じ、丸岡城に配したのである。
さて、この成重とは、本多重次の長男で幼名を仙千代という。重次は、長篠の戦いで妻にあてた手紙が有名である。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
このお仙とは「仙千代」すなわち、成重のことである。
この度の騒動は、藩主・忠直が若く力量が不足しているからだと、両御所は判断した。これ以降、越前松平家は、「将軍家の兄の家柄」から陥落し、家門の一大名として扱われるようになった。
「慶長十八年癸丑正月一日、四方拝アリ、假殿ナルニ依リ、小朝拝・節会ヲ停ム。」(「史料綜覧」)
江戸城から賀使として酒井左衛門尉家次が駿府に遣わされた。居並ぶ群臣の前に進み出て、拝賀を述べるとき家康の御前で烏帽子を落す、という失態を演じた。家次は烏帽子の中に綿帽子を被っていたのである。
これを見た家康は、忽ち機嫌が悪くなり、
「本多佐渡守正信は、すでに老齢ではあるが、烏帽子の下に綿帽子をかぶることなどしない。お前はまだ若いのに老人の真似事をするとは、実に不届きである。ここはオレの隠居城であるから、まだいいが、江戸城は政令を発する所であるから、天下諸侯朝観の場でこのような挙動があれば、将軍家の恥辱であろう。」と叱責したのである。これに満座の群臣は凍てついた。
すると、阿茶局が家次の傍らに進み出て、
「家次さまは、お風邪を召しまして、今朝は登営もままならぬ程でした。如何しましょうと内々にわらわに申し越してございます。たとえ病と雖も、将軍様の御名代であれば、元日に登城せねばなりますまい。さもなくば歳首の朝議が整いません。それで烏帽子の中に綿帽子を被るようわらわが申したのでございます。」と言上した。
家次と阿茶局が平伏する姿を見て、家康もこれ以上怒ることもできず、ご機嫌を直したという。
「此局はさる才幹ある婦人にて、常にかく諸人の罪をも、なだめ申せし事多かりしとぞ。」(「續明良洪範」)
本当に家次が風邪をひいて、阿茶局に助言を求めたのかは分からないが、群臣が困ったときに阿茶局に助けを求めることは、これまでもあったのだろう。満座の席で面目を失った家次は、自害したかもしれないのだ。
朝議の席での失態という、群臣が凍てつくような緊張する場面でも、阿茶局は、その場をうまく収めている。多くの人に慕われ、信頼されていた理由が分かるであろう。
源鸞岳 (菅丘) 著 ほか『皇朝烈女伝 : 女訓』
続編,中村頼治,明17.2.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/777853 (参照 2024-11-20)
