南光坊天海 (70)

 

 

 

 「久世但馬守御成敗之権譽者、但馬平領分百姓之娘を、岡部伊予守入道自休斎領分百姓嫁す。彼夫佐渡金山参り三年ニ及び不帰。扶持米を遺事三年、其後不遺故、自休の百姓相談致、再但馬の百姓嫁、六年過て自休の百姓、帰り甚立腹す。其刻、後之夫を殺者あり。誰殺たる事知らず。人々「先之夫之殺たる」と云。但馬守腹立、潜に家老木村八右衛門に申付、前夫を組大将野々村十右衛門下知二而、為殺り。」(「国事叢記」)

 

 越前藩祖・結城秀康の寵臣に久世但馬守という男がいた。ある日、彼の所領に住む百姓の娘が、町奉行・岡部自休の所領に住む百姓のもとに嫁いだ。ところが、この夫が佐渡の金山に行ったまま、行方知れずとなった。娘は3年待っても戻らなかったので、実家に帰り、再婚したのである。

 6年たって、佐渡に行っていた前夫が戻ってみると、自分の妻が再婚していたので、甚だしく怒った。これが大きな諍いとなったのである。

 

 するとついに、現在の夫が、何者かに殺害されるという事件が起きたのである。犯人は分からなかったが、人々は「前夫」の仕業だと噂した。

 久世但馬守も「犯人は前夫に違いない。」と考え、これをひどく憎んだ。そこで家老の木村八右衛門に前夫を暗殺するように命じたのである。組頭の野々村十右衛門はその下知に従い、前夫を殺害したのであった。

 

 治まらないのは岡部自休である。

 「久世の手の者が、勝手に自分の領民を殺した。」と訴え出た。そこで北ノ庄藩で調停が行われたが、和解することができなかったのである。

 

 本多富正は、もともと家康の家臣であったが、結城秀康の越前入封の際、附家老として、府中3万9千石を領した。秀康が死去すると、幕府の直命により嫡男・松平忠直を補佐したのである。その人柄は、武芸に秀でて、博識であるが、寡黙で温厚、控えめな人物であったという。

 藩主の忠直は当時17歳であったため、附家老の富正が藩政を預かることとなり、旧結城家の家老であった今村盛次らの派閥と対立していた。

 

 この度の「久世事件」は、この富正盛次らが評定を行う事となった。富正と竹島周防守は久世に対して同情的であったが、盛次・中川一茂らは岡部に味方した。このため評定は長期化したのである。

 10月31日、憤った岡部は、駿府の大御所・家康に直訴しようとするが、周囲に止められた。また、久世側も幕府に訴訟を挙げるなど、藩を揺るがす大問題となったのである。

 

 盛次は居城・丸岡城から武装した家臣を呼び寄せ、北ノ庄に集結させた。

 10月17日、盛次は兵を突入させ、北ノ庄城を掌握し、藩主・忠直の身柄を確保した。城内にいた竹島周防守を牢に幽閉したのである。盛次は忠直を利用し、久世但馬守を捕縛するよう富正に命じたのであった。

 富正は府中城に立て籠り抵抗したが、形式上であっても藩主の命令であったため、久世の屋敷に向かった。単身久世屋敷に赴き、「主命であるから切腹すべきである。」と告げた。しかし久世は「このような一方的な裁きは、受け入れられない。」と拒絶したのである。久世の家臣は殺気立ち、富正を殺そうとしたが、久世はこれを諫め、「私の死後、弁護してくれるのは本多殿しかいない。」といった。久世は女子供を逃すと、防御柵を巡らし戦闘に備えたのである。

 

 富正は北ノ庄城で復命すると、主命を拒絶した久世を討つようにと、追討命令が下された。富正は軍勢を整え、久世邸に向かって出陣した。すると背後の城から今村の兵が、挑発するように発砲したという。

 本多隊と久世隊が交戦しているところに、今村は多賀谷隊を出撃させ、本多隊を後方から銃撃した。これは極めて危険な行為で、富正自身にも銃弾が当たったという。さすがに本多隊は抗議して、これを止めさせたのであった。

 

 

武生市史編纂委員会 編『武生市史』概説篇,

武生市,1976.12.

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3012259

(参照 2024-11-18)