南光坊天海 (54)

 

 

 

 天海が奥の間に入ると、珍しく家康は居住まいを正し、お悔やみを伝えた。天海はこれに丁重に謝意を述べると、さっそく二人は本題に入った。

 

 「オレが最後に秀頼に会ったのが11歳の時だ。太閤殿下には、似ても似つかぬ温厚な少年であった。それが成人してどうなったと思う。」と家康は楽しそうに話す。

 「さて、見当もつきません。」と天海が言うと、

 「とんでもない大男よ。」というと家康は声をあげて笑った。

 「身の丈は六尺(およそ180cm)を超えて、重さは、おそらく40貫はあるであろう。まるで相撲取りだ。」と大きく手を広げていう。

 天海は小首を傾げると、

 「そういえば、淀殿の御父上(浅井長政)も大柄な方でしたな。」といった。

 「それにしてもだ。あれが小柄な太閤殿下のお子なのか。」と家康は独り言のように声を潜めた。

 しかし、天海はそれには答えず、「問題はご器量でございましょう。どのように思われましたか。」と尋ねた。

 「それが、堂々たる美丈夫だ。年若いのに大したものだった。それこそ、小谷城の若殿と瓜二つよ。」といった。

 

 そこで二人は、黙って考え込んだ。

 「それは、面倒でございますな。」と天海がいうと、

 「うむ、まずい。秀頼は愚魯なり、と聞いていたが、全く違う。輿から降り立つと太刀持ちの木村長門を従えて、威風堂々の出で立ちだ。一言二言、挨拶を交わしただけでも、その賢さが分かった。」と家康は答えた。

 

 「御成の間でも、豊家の対面を考え、対等な席を用意したのだが、これを固辞して下座に就いた。オレが年長官位も上であることを熟知し、一歩引いたのだが、その振る舞いも実に見事であった。思えばあの淀殿が命がけで育てたお子である。体格もぶくぶくと太っているのではなく、鍛錬されたものだ。」と家康は顔を曇らせたのである。

 「乱世の英雄であれば、実に見事な御器量でございましょうが、太平の世には相応しくない人物でございますな。」と天海は冷淡に述べた。いまさら豊臣家に復活されても迷惑なだけなのである。

 

 「オレは見誤っていた。人々は口々に、女に囲まれて育ち、嬰児のごとき優男である、と言っていた。城から一歩も出られない愚鈍な男であると言っていたのだ。まったく人のいう事はあてにならない。やはり自分の目で見なければ、何も信用ならん。あれは小谷の血を継いでいる。信長公を苦しめた長政の血だ。あの男は侮れない。

 それに主計頭(清正)は愛宕山で17日間護摩を焚いて秀頼の無事を祈ったそうだ。豊臣恩顧の忠義、オレは軽く見ていたのだ。」と暗い目をする。

 「オレは覚悟を決めた。お主の知恵も借りるぞ。」と天海を見据えたのである。

 

 「御所柿は ひとり熟して 落ちにけり 木の下にいて 拾ふ秀頼」

 

 天海は京都の利景の宿舎に入った。

 「兄者、不届き者がこんな落首を流行らせているそうだ。所司代の役人が血眼になって犯人を捜しているそうだが、まあ、無駄であろう。」と利景が紙片を見せた。

 「なるほど、御所とは大御所で柿は天下か、そして木の下のお拾いとは、これはうまいな。」と天海が感心すると、

 「感心している場合じゃないですよ。大御所様がお亡くなりになるのを、大坂方は待っているという意味ですよ。」と利景は苦い顔をした。

 

安藤英男 著『加藤清正 : 史伝』,

河出書房新社,1976.

国立国会図書館デジタルコレクション 

https://dl.ndl.go.jp/pid/12256138

 (参照 2024-11-03)