南光坊天海 ㊿
「慶長十六年辛亥正月元日江城歳首の慶会例のごとし。二日、謡曲始例の如し。駿城にて歳首の慶会行はる。酒井左衛門尉家次江城より御使して、新年を賀せらる。大坂の豊臣右大臣秀頼公より、大野主馬治房を駿城を使して賀し進めらせらる。」(「台徳院殿御實紀」)
江戸・駿河も、めでたく慶長16年の正月を迎えたが、家康の元には相変わらず訃報が続いたのである。
正月2日に眼医者の伊達景長が死んだ。眼医者と言っても元は武士で、高天神城の戦いで武田勝頼と戦い、深手を負った。一旦、駿河国江尻で隠居したが、一念発起して医学を学び、眼科の術を修めたという。
3日には由良國繁が死に、遺領7千石を嫡子・貞繁が継いだ。10日、山岡守景が死んで、景長が継いで、植村正朝が死んで、正相が継いでいる。さらに19日には植村泰忠が死んで、泰勝が継いでいる。特に名のある武将ではないが、これだけ続くと、さすがに家康も気が滅入るであろう。
家康は、近々上洛することになっている。延び延びになっていた後陽成天皇の譲位をいよいよ決せねばならなかった。京都所司代・板倉勝重の準備に怠りはないはずである。天海は「天台宗法華会廣学竪義探題職」を拝任にする際に、何度か参内しているので、密かに朝廷の内情を調べさせていた。「なぁに、転んでもただでは起きぬ。」と家康は、ほくそ笑むのである。
「慶長十六年正月廿一日、薩摩鹿児島城主島津家久ノ伯父龍伯(義久)卒ス、家臣新納忠朝等、殉死ス。」(「史料綜覧」)
島津一族の活躍は既に語ったので、本領安堵後の話をしよう。義久は「御重物」と言われる当主の座を正式に忠恒(家久)に譲ると、慶長9年(1604年)には大隅国の国分城を隠居城として移り住んだ。
しかし、忠恒と娘の亀寿が不仲で、後継になる子が生まれなかったのである。そこで、外孫・島津久信を養子に送り込もうとしたが、家臣の強い反対にあい失敗する。さらに忠恒・義弘が進めた琉球侵攻にも反対したため、関係は悪化した。
慶長15年(1610年)には、三者の関係はますます悪くなり、鹿児島では、家臣まで三分裂の状態であったという。この三殿は個性が強すぎて、仕える家臣の苦労も並大抵ではなかったことであろう。
慶長16年(1611年)1月21日、義久は逝去した。享年は79歳であるから当時としては長寿である。
「世間では、夫人(亀寿)と公(忠恒)は琴瑟和せずと伝えられた。」
(「島津国史」)
さて、義久の死を、首を長くして待っている男がいた。言わずと知れた忠恒である。忠恒は、島津家の後継となるため義久の娘で従姉でもある亀寿と結婚した。しかし兄・久保の未亡人である亀寿を始めから嫌っていたのである。当然にして子もできず、二人の不仲は周知の事実であった。しかし、前当主・義久の愛娘であるため、遠慮して忠恒は側室も持てなかったのである。
義久が死ぬと忠恒は態度を一変させ、亀寿を国分城に追い出すと、側室を8人設けた。その側室に次々、子供を作らせ、何と33人もの子を産ませたのである。生まれた子供は、分家や重臣たちに養子や正妻として送り込み、権力を高めたのである。
亀寿には1万石を超える知行があり、多くの家臣もいた。しかし、軍役のない知行であったため、義久が死ぬと多くの家臣が、忠恒に引き抜かれたのである。寂しい亀寿を心配した義弘は、加治木に引き取ろうとしたが、「召し連れる女房衆も少なく行けません。」と断っている。そこで、義弘は自ら国分城に訪れ、饗応したという。
鹿児島県私立教育会 編『鹿児島県史談』,
吉田文卉堂,明32.2.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/766580
(参照 2024-10-30)
