南光坊天海 ㊵

 

 

 

 「左衛門(秀政)、多年の勤功あり、万一跡目たてられずんば、参りて御縁を汚さん」

 (「直政書状」)

 

 急死した秀政の嫡男・秀治はまだ15歳であったため、秀吉は北ノ庄18万石を召し上げようと考えた。これに直政が怒ったのである。次男・直寄秀吉のもとに遣わし、「秀政は長年の勲功がある。嫡男が跡目を継げなければ、これまでのご縁が汚されてしまう。」と訴えたのである。こうして秀吉は秀治の襲封を認め、直政を堀家執政職としたのであった。

 

 慶長3年(1598年)上杉景勝会津に移封となると、秀治越後45万石に加増移封された。当主・秀治は春日山城を居城とし、蔵王堂城親良(四万石・秀治・弟)、坂戸城直寄(二万石・直政・次男)、三条城直政(五万石・家老・城代に嫡男・直次)、新発田城溝口秀勝(六万石・与力)、本庄城村上義明(九万石・与力)を配置した。

 

 秀治が越後春日山城に入ったのは慶長4年(1599年)の4月である。当時の取り決めとして、移封の際は旧領の年貢は半数にとどめ、残りは封印して、公儀の代官に移管するのが習わしであった。ところが上杉家執政直江兼続は移管手続きに来た石田三成と共に一年分の年貢を全て会津に持ち去ってしまったのである。執政の直政はこの事態に困惑し、上杉家に再三にわたり、返還を要求するが、兼続は全く取り合わなかった。

 困窮した直政は、新潟代官・河村彦左衛門久吉から二千表の米を借り受けた。ところがこの河村という代官はもともと上杉家の家臣であり、兼続とは懇意のものであった。

 

 これら一連の処置は、明らかに三成兼続の謀略であり、堀家の弱体化を狙ったものである。上杉方は、もし堀家が越後領民から租税を取立てるならば、農民を蜂起させ、一揆をおこさせる手筈であった。

 

 「越後の儀は上杉本領に候へば、中納言(景勝)殿へ被下置候旨、秀頼公御内意に候、彼国成次第、手段御油断不可有候、中納言殿勘当にて越後に残留候牢人、歴々有、之由、柿崎三河守、丸田右京、宇佐美民部、菖貫寺、加治等御引付、御尤に候。此説に候間、聊不可有油断候。」(「兼続宛三成書状」)

 

 「越後は上杉の本領であるから意のままにして良い、それが秀頼公の内意だ。」とは、随分堀家を蔑ろにした話である。

 この頃から三成と兼続の「関ケ原」は始まっていて、誰が敵で誰が味方か、見定めていたのであろう。二人は、明確な共謀関係ではなかったが、徳川家に対する同じ青写真を共有していたのである。そして堀直政は、徳川方、すなわち敵として認定されていた。

 

 「上杉家譜代の兵共、皆牢人にて越後に引込罷有し輩ら、直江が催促により、又三成より懇に書状到来せしより、皆是に一味し、譜代の家人を召集め、ける程に、物具馬具こそ見苦しけれ、屈竟の兵八千余名、鉄砲二千挺ぞ集りける。」(「北越太平記」)

 

 兼続サイドから見てみよう。主人である景勝亡き太閤の遺訓を守り、秀頼公の成人まで忠義を尽くす覚悟である。ところが家康遺訓を蔑ろにし、欲しいままに政治を行っている。両者はいずれ衝突するであろう。

 会津は奥羽の要地であり四方に街道が繋がっている。ところが周囲は敵だらけである。上杉家徳川家に勝つためには、まず最上家を下し、伊達家と同盟し、佐竹家と共に関東に乱入する以外にないのだ。

 越後の堀家は、上杉家にとって西の脅威であり、屈服させるか、崩壊させるしかない。そこであらかじめ「牢人衆」を組織させ、いざとなれば蜂起させる手筈だったのである。

 

 

 

堀直政木像

『堀家の歴史 : 飯田・村松・須坂・椎谷』,

堀直敬 著 堀家の歴史研究会,1967.

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3017859

(参照 2024-10-18)