南光坊天海 ㉗
家康は板倉勝重、重昌を駿府に呼び寄せ、処分に関する会議を開いた。勝重は既に主要な尋問・取り調べを終えていて、作成された調書は、非の打ちどころのない立派なものであった。
「さすがは四郎右衛門(勝重)であるな。」と家康は感心する。
慶長14年(1609年)9月23日、駿府から京都に戻った勝重は、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対する処分案を示した。
猪熊教利…………死罪
兼康備後…………死罪
大炊御門頼国……硫黄島配流
花山院忠長………蝦夷松前配流
飛鳥井雅賢………隠岐配流
難波宗勝…………伊豆配流
中御門宗信………硫黄島配流
広橋局……………伊豆新島配流
中院局……………伊豆新島配流
水無瀬……………伊豆新島配流
唐橋局……………伊豆新島配流
讃岐………………伊豆新島配流
烏丸光広…………赦免
徳大寺実久………赦免
この処分案に対し、帝は刑が軽すぎるとして、不満を露わにした。しかし公卿や新上東門院などは、遠島が哀れと思ったものの、仕方なく賛成した。これで刑が確定したのであるが、極刑を望んだ帝の面目は見事に潰されたのである。
10月17日、常禅寺にて猪熊が、鴨川の河原にて兼康が斬首となった。
「当代記」によると「猪熊の最後の体、いよいよ恥辱をあらわす。」と記しているから、余程見苦しい最後であったようだ。
さて、この若い貴族たちは、その後どうなったか、というと硫黄島に流された頼国と宗信の二人は程なく流刑地で死んでいる。どうやら余程過酷な地であったようで、これでは死罪の方がましだったかも知れない。
松前に流された忠長は、27年後の寛永13年(1636年)に赦免を受けている。隠岐に流された雅賢は17年後の寛永3年(1626年)に流刑地で死去している。伊豆に流された宗勝はわずか3年後の慶長17年(1612年)に赦免されている。一方、5人の女官たちは14年後の元和9年(1623年)に全員、赦免を受けている。
ところで、烏丸光広と徳大寺実久が、何故赦免されたかは、不明である。
光広は官を止められ、一時蟄居していたが、慶長16年(1611年)には勅免を受けて還任し、権大納言まで進んでいる。光広は歌人、書家として知られ、徳川家との繋がりもあったようだ。後には家光の歌道指南役になっている。
実久も慶長16年に勅免を受け、権中納言まで進んだが、元和2年(1617年)34歳で死去した。実久は、事件との関わりが軽微であったのかも知れない。
この判決に帝(後陽成天皇)は全く不満であった。しかし、周りの状況がままならぬ中、すっかり鬱状態になったというのだ。
こののち、帝はしばしば譲位を口にするようになり、幕府の新たな難問となった。
烏丸光広