天海 (216)

 

 

 

 「慶長六年正月一日、大坂城、歳首ノ儀アリ、徳川家康、病ニ依リ、諸士ノ参賀ヲ停ム。

 徳川家康ノ奏請ニ依リ、近江佐和山ノ井伊直政・皆川廣照ヲ竝ニ従四位下ニ叙ス、尋デ、直政、其封ニ就ク。

 十五日、諸大名、歳首ヲ徳川家康ニ大坂城ニ賀ス。」(「史料綜覧」)

 

 家康も人の子である。年末に体調を崩し、正月の行事は敬遠して、床に伏せていた。

 「今は大切な時期だ。恐らくただの風邪であろうが、万病の元である。無理はできない。」と家康は自重する。それでも5日を過ぎると、じっとしていることに我慢できず、動き出した。

 「諸大名より、歳首の挨拶をどのようにされるかと、お問い合わせが来ております。」と奏者奉行の利景が尋ねると、家康はジットリとした目つきで睨みつけ、「ところで勘右衛門、お前の兄者は何をしている。」と問うた。

 「はぁ、天海上人でございますか。最近会っておりませんが、伏見ではなかろうかと存じます。」と困惑気味に利景が言うと、

 「いつまでも女房の所で油を売ってないで、たまには顔を出せと伝えろ。」といった。

 結局、15日に改めて歳首の挨拶を行うことになったが、利景は慌てて天海に使者を立てた。

 

 慶長6年(1601年)、1月中旬、大坂城西の丸で家康は上杉家の処遇を諮った。この席で結城秀康が進み出て、「上杉は武門の名家であるから、処分は改易などではなく減封が妥当でありましょう。」と意見した。居並ぶ諸将もこれに同意したのである。2月に入ると秀康の執り成しで、西笑承兌が兼続に書状を出したのであった。

 

 「これで良いと思うか。」と家康は、漸く登城した天海に尋ねた。

 「両家にとり幸甚と存じます。」と天海は喜んだ。

 「なぜ両家にとって幸甚なのか。」と家康は尋ねる。

 「上杉家は義を重んじる家風でございます。この度の戦も滅亡寸前であった上杉家を大老にまで引き上げた太閤様のご恩に報いたものでございます。ここで上杉に温情を与えれば、次は必ずや徳川のためにお働きになるでしょう。」と天海は言うのである。

 「そんなものかな。」と家康は笑った。

 「ただ、伊達家にはお気をつけください。伊達家は上杉の領土を狙い、必ず講和を妨害して来るでしょう。上洛を妨げるために合戦を仕掛けてくるかも知れません。」と懸念を示した。

 「分かった、秀康にも伝えよう。」と家康は言ったのである。

 

 天海の懸念は当たっていた。

 伊達家では片倉景綱が、「上杉は講和調停の最中で、向こうから攻めてくることはありません。」と進言していたのである。

 「ふむ、ではこちらは殴り放題という事か。」というと政宗は笑った。

 「しかし、上杉も破れかぶれの反撃をしてくるかも知れません。ここは慎重に事を進めましょう。」と景綱は慌てて忠告する。

 「な~に、こちらには『百万石のお墨付き』がある。この機会を逃してなるものか。」と政宗は意気込んだ。

 

 慶長6年正月、伊達軍二本松に侵入した。さらに川俣、福島にも侵入したが、すぐに撤退した。また常套手段である土豪を焚きつけて、一揆をおこさせる手法も、悉く失敗したのである。

 そんな伊達家秀康は「講和調停中に上杉家を攻めることは断じてまかりならん。」と警告を与えた。

 結局、政宗は関ケ原戦役の間に苅田郡2万石を得ただけで、100万石は夢に消えたのである。

 

 

片倉景綱