天海 (215)

 

 

 「時に最上義光、豊臣秀吉に訴へて曰く、本庄三郡は最上領たるに、故なく本庄繁長之を奪ふと。翌十七年春繁長上洛し、対決の結果遂に其の非最上にありと決せらる。天正十八年に至り直江兼続は本庄の領羽前庄内鉱山を見て、之を景勝直轄の地となさんと欲し、増田長盛、大谷嘉隆、石田三成へ頼み込み、ついに景勝の支配と爲す。文禄元年繁長、秀吉の勘気を蒙り、大和国奈良付近に蟄居す。

 景勝亦越後南蒲原郡大面の地一万石を与へ、本庄城を領する事元の如くなるを得、文禄二年十月繁長本庄城へ帰る。」(「本庄家記録」一部)

 

 本庄繁長は、天文8年(1540年)の生まれであるから、関ケ原の戦役の時は61歳である。もはや老将と言ってよい。

 繁長は越後の北部を支配した揚北衆の一人である。越後北部は謙信の支配下であったが、実際には謙信もままならぬ厄介な土地であった。それでも繁長は謙信と共に川中島関東を転戦し、各地で武功を挙げたのである。

 永禄11年(1568年)謙信に命じられて長尾藤景を成敗したのに、恩賞がなかったことに腹を立て、上杉家からの独立を図ったのである。謙信は直ちに繁長を囲ったが、繁長の巧みな采配に翻弄され、大きな被害を出した。謙信と繁長の対立は長期化したが、蘆名盛氏の仲介で和解し帰参を許されたのである。

 

 御館の乱の後は、景勝に臣従し、新発田討伐で戦功をあげている。

 天正11年(1583年)、庄内三郡を巡り、最上義光と対立、大宝寺家に実子・義勝を養子として入れると、義光は庄内に軍を進めたのである。

 天正15年(1584年)、大宝寺義勝は父を頼って越後に逃れた。

 天正16年、繁長・義勝は十五里ケ原の戦いで最上軍を破り、朝日山の戦いで庄内地方を掌握した。こうして大宝寺義勝は秀吉に謁見し、景勝の与力大名として庄内支配を認められたのである。

 

 ところが、天正18年(1590年)になると太閤検地を巡り色部長実と諍いを起こし、一揆との関与も疑われた。これにより秀吉の勘気を蒙り、大和国奈良で蟄居を命じられるのである。

 その後、文禄の役に参陣し、秀吉から赦免を受け、旧領・本庄1万石に復帰した。

 こうして経歴を見ると、どうしても福島正則加藤清正、島津義弘、立花宗茂らと同じ匂いを感じるのは私だけであろうか。

 

 慶長5年(1600年)、景勝会津転封に伴い、繁長は信太郡福島城に移った。関ケ原の戦いで大坂方が敗れ、兼続が長谷堂城から撤退すると、政宗は2万の兵力で福島城を囲ったのである。梁川城の須田長義は、信夫山の背後に展開していた伊達軍の小荷駄隊を襲った。これを知った繁長は城外に打って出て伊達軍を見事に敗走させたのである。(松川の戦い

 

 10月20日、景勝は会津に重臣を集め、今後の方針について評定を開いた。この中で兼続はなおも抗戦継続を主張したが、繁長は徳川方との早期講和を主張した。景勝はこの評定で繁長の意見を容れて、徳川方との和睦の道を探ることになった。家中では徹底抗戦を主張するものが多かったが、景勝はうまく家中をまとめたのである。

 

 景勝は在京していた千坂景親を通じ徳川方と接触を図り、中島玄播舟岡源左衛門を派遣した。二人は本多正信、本多忠勝、榊原康政と接触し、講和の道を探ったのである。12月になると、景勝は上杉家の全権大使として上洛する人物に、早期講和を主張した繁長を指定した。

 「この寒い季節に長旅をさせるのは誠に忍びないが、早々に上洛してもらいたい。仔細は兼続から伝える。」との繁長に書状が届く。

 こうして天下にその名を知られた62歳の老将は上杉家の命運を背負い、上洛の途に就いたのである。

 

本庄繁長