天海 (214)

 

 

 

【上杉と島津】

 

 「関ケ原戦敗れ秀家膽吹山に匿る其臣進藤正次扶けて大坂に至り潜に航して薩摩に走らしめ詐て其死を告く秀家薩摩に到り情を家久(忠恒)に告く、家久之を大隅国牛根に居く、即ち本書に、備前前之中納言不意此国へ被走入候間不及了簡抅置候とあるは此を云うなり。」(「吉備史談会講演録」)

 

 宇喜多秀家は伊吹山から逃亡し、数名の従者と移動中に、落武者狩りをしていた矢野五右衛門に遭遇した。五右衛門はその容姿・身形から高名な武将であると確信したのである。五右衛門は家人と共に槍を構え近づくものの、その武将は堂々としていて、命請いすらしなかったという。

 やがてこの人物が備前宰相・宇喜多秀家だと知ると、五右衛門は自宅に招き入れ、40日もの間、匿ったという。五右衛門は秀家を逃がすため、方策をめぐらし、正室の実家である大坂の前田屋敷に送り届けた。

 秀家はここで正室豪姫と再会したのである。この礼として、秀家はかつて自分が秀吉から賜った朱印状と黄金30枚五右衛門に与えたという。

 その後秀家は京都太秦に潜伏していたが、京都所司代・奥平信昌に発見される。これを何とか振り切り逃走したが、ついに行き場を失った。追い詰められた秀家は、まだ徳川方に屈していない島津氏を頼り、海路で薩摩にまで逃げ落ちたのである。

 

 さて、何故秀家が縁も所縁もない島津家に助けを求めたか、と言えば、そこに義弘がいたからであろう。秀家は朝鮮役で義弘と幾ばくかの交流があったのだ。義弘は男気溢れる信頼のおける武将であった。彼を尊敬し、彼に憧れる者は少なくなかったのである。

 

 義弘と言う男は実に困った男である。男気が強く、滅法強いのであるが、本人には政治的思考が全くないのである。

 義久、義弘、忠恒の「三殿」は関ケ原の後始末に、心底困っていたのであった。黒田如水、寺沢広高、山口直友、立花宗茂、井伊直政が和睦を勧めるのも偏に義弘の人望がなせる業である。しかし、島津家の実質的当主は兄の義久なのである。和睦の条件は、義久の上洛であるが、これが難しい。義久は薩摩から出ようとしないのである。

 

 つまり、政治手腕にたけ、家中では無敵の兄・義久は内弁慶で領国から出たがらない。一方、戦が強く、人情に厚く、誰からも愛される義弘には政治的手腕・交渉の駆け引きが全くできないのである。

 こうして三殿は意見がまとまらないまま、徒に時が過ぎていく。取り敢えず義弘は遠島・蟄居となったが、遠島と言っても実は桜島である。

 このように家中が揉めているときに、さらなる難問が島津家に訪れた。何と大坂方副大将の「宇喜多秀家」がやって来たのである。一同は「何故?」と思ったことであろう。

 

 これが陳腐な武家であれば「秀家の首」を手土産に徳川家に詫びを入れるのであろうが、島津家がそんな真似をするはずがない。名誉を重んじる義弘は、窮して助けを求める者がいれば、命を懸けてこれを守るのである。それを知っているから、秀家はここに来たのであろう。

 

 忠恒は、上洛したくない義父と謀反人を助ける実父に挟まれて、頭を抱えていた。取り敢えず、秀家を大隅国牛根に匿うと、「どいつもこいつも勝手な奴ばかりで、オレはどうすりゃいいんだ。」と嘆いた。

 「自分の家がどうなるのかも分からないのに、お尋ね者まで匿ったとなると、助かる命も助からん。これが家康に知られたらどうする気なのだ。」

 もはや、やけくそとなった忠恒は、「いっそ、天下を敵に回して、華々しく死ぬか。」と考え、国境の整備を始めたのである。

 

秀家と豪姫