天海 (213)

 

 

 

 さて、徳川家の論功行賞は時間をかけて実施されたようである。

 まず太閤蔵入地は全国に200万石ほどあったとされる。これらは豊臣政権の直轄領で大名や吏僚・豪商などに管理を任せ、税収は政権の運営費などに使われた。この蔵入地の大半が没収され、さらに京都・大坂・堺・長崎の都市管理と金山・銀山などの鉱山も接収されたので、豊臣家は単に摂津・河内・和泉を領する65万石の大名になったのである。

 

 つぎに関ケ原の戦いで大きな功績のあった大名は揃って西国に配置されたのであった。

 池田輝政、三河吉田(15万石)から播磨姫路(52万石)。

 福島正則、尾張清州(20万石)から安芸広島(50万石)。

 浅野幸長、甲斐甲府(16万石)から紀伊和歌山(38万石)。

 藤堂高虎、伊予板島(8万号)から伊予今治(20万石)。

 山内一豊、遠江掛川(7万石)から土佐浦戸(20万石)。

 加藤嘉明、伊予正木(10万石)から伊予松山(20万石)。

 

 そして東西の境目には信頼する大名を配置したのである。

 松平忠吉、武蔵忍(10万石)から尾張清州(52万石)。

 井伊直政、上野箕輪(12万石)から近江彦根(18万石)。

 本多忠勝、上総大多喜(10万石)から伊勢桑名(10万石)。

 また東海地方には徳川家の譜代・旗本を中心に比較的小規模な大名を配置した。

 

 さて、実権は失ったとはいえ、無傷で生き残った大老の前田利長は弟・前田利政22万5千石と西加賀18万石を加え、122万石の大大名となったのである。当然、徳川政権はこれを危険視した。加賀大坂を遮るように秀康を入れたのである

 結城秀康、下野結城(10万石)から越前北ノ庄(67万石)。

 

 それに比べて越後は混とんとしていた。

 堀秀治、越後春日山(30万石)・堀親良、越後蔵王堂(3万石)・

 堀直正、越後三条(5万石)・堀直寄、越後板戸(2万石)・

 堀秀重、越後国内(1万石)・近藤重勝、越後国内(1万石)

 以上堀一族で越後南部42万石を領している。

 一方、越後北部は、村上頼勝、越後村上(9万石)。溝口秀勝、越後新発田(6万石)の両家で15万石であった。

 

 九州地方はまだ島津領が定まっていないが、概ね大勢は決していた。

 黒田長政、豊前中津(18万石)から筑前名島(52万石)。

 加藤清正、肥後熊本(25万石)から肥後熊本(51万石)。

 細川忠興、丹後宮津(18万石)から豊前小倉(40万石)。

 田中吉政、三河岡崎(10万石)から筑後柳河(32万石)。

 稲葉貞通、美濃郡上八幡(4万石)から豊後臼杵(5万石)。

 松浦鎮信、肥前平戸(6万石)・秋月種長、日向財部(3万石)・

 相良長毎、肥後人吉(2万石)・高橋元種、日向縣(5万石)・

 毛利高政、豊後国内(2万石)・木下延俊、豊後日出(3万石)・

 伊東祐兵、日向飫肥(5万7千石)

 なお、竜造寺家は形式上、肥前佐賀(35万7千石)を安堵されたが、実質は鍋島直茂の所領であった。

 

 これで残るは上杉家(120万石)のある奥羽地方と佐竹家(54万6千石)のある北関東地方、島津家(61万石)のある南九州地方である。