天海 (212)

 

 

 

 評定は概ね家康正信想定通りの展開に終わったが、上杉家に養子を入れる話は想定していなかった。しかも家康は満更でもないようなのである。

 「入れるとすれば七郎か。」と言い出した。

 七郎とは家康の五男・武田(松平)信吉の事である。

 「しかしながら、信吉さまは、武田家支流秋山家の婿養子となり、甲斐武田の名跡を継いでおります。家臣には旧穴山家の者が多くついて居りますゆえ、これでまた上杉家の養子になるというのは如何なものでしょうか。」と正信は難色を示した。

 「大幅減封では家臣も辛かろう。家臣としても家禄が維持できれば多少の不満は我慢できるものだ。歴代の譜代は景勝についていけばよいだろう。景勝にも隠居領として10万石くらいは与えてもよいぞ。」と家康は言うのだ。

 正信には良い案とは思われなかったが、しばらく静観することにした。

 「いずれ綻びが出るであろう。」と考えたのである。

 

 「去る程に黒田如水・加藤清正・鍋島直茂其外、九州にて、内府公へ帰服せい輩、島津氏を退治せん爲めに、肥後国佐志城・水俣邊まで発向せらる。清正は、彼の国の先鋒なるにより、水俣に陣を居ゑ、既に、薩摩に攻入るべしとありけるに、如水、此時、島津氏の滅亡を深く病はり、其上、薩摩を攻むるに於ては、敵味方に死傷多く、又は即功もなからんかと、彼此思慮ある故に、其意趣を、具に御註進申し、先手に居られし清正の方へ、書状を贈り給ひ、薩摩の兵士、向かいたりとも、暫く戦を控えられるべしと。」(「関原軍記大成」)

 

 使者を命じられた新納旅庵であったが、義弘に合わせる顔がないとして、同行した本田元親を代わりに使者に立てた。元親は家康や正信の意向を内々で伝えている。しかし、その一方で庄内の乱で軋轢を生んだ清正は脅威であり、気が抜けぬ状況であった。

 10月24日、立花宗茂を降伏させた清正は、柳川城を接収すると薩摩攻撃のため南下した。清正は水俣に陣を敷き今にも攻め掛からんとしていたのだ。

 

 一方、黒田如水はこの戦いに消極的で、「バカバカしい。」とまで思っていた。だから清正の張り切り様は全く理解できなかったのである。

 「島津家は領国の隅々まで支族が入り込んでいて、一人一人が捨て身の反撃をしてくるであろう。両軍の死傷者は増えるばかりだ。そもそも薩摩に攻め込んで島津家を滅ぼしても何にもならない。他家の者が入ってもあの国は治めきれない。つまり被害が増えるばかりで、寸土も得られぬ、仮に貰えたとしても難儀なだけだ。良いことは一つもない。」と如水は思う。そこで家康に再三、書状を出し、薩摩攻めを思い留まるように伝えたのである。

 

 それに対して家康は、「たびたびの注進でよく事態を理解した。宗茂を連れて薩摩を説得せよ。清正、直茂とも相談しろ。後は直政に申し付けた。」と返事をしている。

 指名を受けた宗茂は如水の先鋒として、国境沿いまで来ると義久・義弘・忠恒に降伏を勧める書状を書いた。

 「謝罪して、事態を収拾すべきだ。及ばずながら自分も協力する。できる限り早く八代まで使者を派遣したほうが良い。近いうちに秀忠公が出陣すると聞いた。そうなれば赦免を受けて、自分も先鋒を命じられるかもしれない。そうなる前に謝罪するなら、自分が命を懸けて使者をつとめる。」

 

 島津家に対してこの宗茂をはじめ、如水、寺沢正成、山口直友、そして井伊直政までもが和睦に動き出した。こうして島津家の和平交渉は当初の予想より良好なスタートを切ったのである。

ところが、実際の交渉成立は上杉家よりも遅かったのであるから、不思議な話である。

 

(旅行のため暫く休載します。)

 

加藤清正像