天海 (211)

 

 

 

 大坂城徳川家の重臣が集められ、戦後処理について話し合われた。重臣らはそれぞれ諸大名と繋がりがあるので、重臣間の調整は避けられない。話し合いは順調に進んだが、上杉家・島津家の処分では議論が交わされたのである。

 口火を切ったのは正信であった。

 「上杉家は大老でありながら国政を乱し、三成らと結託して謀反を起こしたことは重罪であると存じます。上杉家は改易、景勝は流罪、山城守は切腹が相当と思います。」と断言した。

 これを聞いて忠勝が、「いや、お待ちくだされ、山城守が治部と結託したという証はあるのでしょうか。上杉家は不届きであるとはいえ、この度の三成の反乱とは切り離すべきと考えます。」と主張した。

 康政もまた「上杉家は名門であり、家臣団も多数おります。これを改易すると、一揆が多い奥羽の治安がますます悪くなるうえ、伊達最上の抑えを失います。上杉・伊達・最上の三家は三竦みにして置くのが上策と思います。」と述べた。

 すると忠隣は「輝元公は御隠居なされ、家督をご子息に譲られました。景勝公にも形の上だけでもご隠居いただくのが筋目ではないでしょうか。」というのである。これは家康、正信の想定外の意見であった。

 

 家康は「う~ん。」と唸ると、「景勝には子がいない。相応しい跡継ぎもいないのだ。」と言った。

 「であれば、徳川家の御養子を送り込めるのではないでしょうか。徳川家の養子を受け入れ、景勝隠居となれば90万石で存続を認める、という条件なら家臣のために飲むのではないでしょうか。」というのである。

 今度は、直政が異を唱えたのである。

 「いや、お待ちくだされ。上杉家は名門であるが故、家臣は名誉心、自負心が強く、あまり敗北感を強いるのは良くないと思います。彼らは謙信公以来の尚武を誇りとしており、家中が収まるとは思えません。」

 「山城守に娘がおります。婿として入れば家中も納得するのでしょう。」

 「いやいや待たれ、山城守は、元は樋口上杉家とは血縁がない。」と忠勝が言うと、

 「それを言うなら、景勝も長尾氏であろう。」と言うのである。

 

 「分かった、分かった、それは少し先の話だ。万千代、於儀丸は何と言っている。」と家康は話題を変えた。

 「結城少将景勝公と接触を持っています。少将は景勝公を大変評価されていて、実に立派な人物だと申しております。内府様には寛大な処置をお願いしたいと申しておりました。また、伏見の上杉邸には重臣・千坂対馬守が留守居としておりまして、会津から使者を派遣させたいと懇願しております。」と直政は言った。

 「まずは景勝らの申し開きを聞こう。ただ大老としての不手際は見過ごせないので、その責任は取らせる。しかし、改易や切腹ではなく、まずは減封が妥当であろう。詳細は申し開きを聞いてからとする。」と家康は締めた。

 

 「次に島津家でありますが、これは義弘が関ケ原で合戦しているので、救いようがないと存じます。」と正信が言うと、

 「まあ、確かに参戦しておりますが、果たしてあれは島津家と言えるのでしょうか。」と忠勝が首を傾げる。

 「島津家ならば60万石、15,000人は動員できるはずですし、わずか1700人では島津家を代表しているとは言い難いと思われます。」と忠隣も同意する。

 「捕らえられた家臣によると義弘公は本国に援軍を要求したそうですが、島津家は大坂方に付いた義弘に激怒して、援軍を送らなかったといいます。」と直政も言う。

 「あそこが援軍を送らないのはいつもの事だがなぁ。」と家康が呟くと、一同から笑い声が起きた。朝鮮の役で義久が義弘に兵を送らなかった話は既に有名であったのだ。「これも交渉次第だな。」として家康は議論を終えた。

藤谷虎三 編『関ケ原軍記 : 絵本』,藤谷虎三,明21.1.

国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/772845 (参照 2024-06-17)