天海 (209)

 

 

 「慶長五年十月十五日、徳川家康、明春、陸奥会津ノ上杉景勝ヲ伐タントシ、陸奥岩手山ノ伊達政宗ヲ戒シム。」(「史料綜覧」)

  

 伊達政宗最上家に援軍を送る一方で、南部家に対して工作を仕掛けていた。この時、南部利正は主力を率いて最上家の支援に向かっていてため、南部領の諸城は手薄であったのだ。政宗旧領主・和賀忠親に「国が割れているうちに領地を切り取るべし。」と唆し、支援を約束して挙兵を促したのである。

 9月20日、忠親は挙兵し、花巻城などを急襲したのであった。窮地に陥った花巻城であったが、北信景が救援に訪れ、これを退けた。

 また政宗は旧稗貫家臣も支援し、大迫城を落したが、信景らが反撃に転じて、一揆勢を破ったので反乱は鎮圧された。

 

 一方、関ケ原の戦い徳川方が勝利したと聞いて、それまで及び腰であった上杉領に対して政宗は侵略を始めるのである。

 10月6日、政宗は自ら軍を率いると国見峠を越えて南進し、上杉方の先鋒・大宝寺義勝を破った。政宗は本庄繁長が守る福島城を囲ったが、容易に落とせなかった。その間、上杉軍は別動隊を派遣し政宗の背後を遮断にしたのである。補給を絶たれた政宗は止むを得ず撤退した。

 さらに、湯原にも出陣しようとしたが、甘粕清長に進軍を阻まれた。すると「景勝が大軍を率いて出陣した。」との報告がもたらされ、慌てて逃げ帰ったのである。

 

 家康はそのような政宗の行動を忌々しく思ったのか、「来春には討伐軍を出すので、無闇に軍勢を出すな。」と命じたのである。

 しかしこの後も政宗の侵略行為は続いた。全く手癖の悪い男である。

 

 「慶長五年十月十五日、徳川家康、諸将ノ功ヲ論ジ賞ヲ行フ。」(「史料綜覧」)

 

 島津家家臣、木田信貞・新納旅庵が山城国鞍馬で捕らえられた。

 「これをどうすべきか。」

 家康は島津家の処遇に悩むのである。忠勝や直政と話す前に方向を決めておきたいところだ。誰かに話し相手になってもらいたいが、天海はもういない。

 

 「弥八郎(本多正純)を呼べ。」と小姓に命じた。

 次の間に控えていたのか、正純はすぐにやってきた。

 「お前の親父は何をしている。」と尋ねると、

 「あれ以来、自室にこもり、蟄居しております。」と正純は言う。

 「ふむ、そろそろ顔を出せと言え。」と命じたのである。

 

 正信は昼過ぎに登城してきた。書院に入るなり平伏してクドクドと詫び事を言いはじめたので、

 「佐渡、もうその話は良い、もういいから、オレの話を聞け。」と家康はいうのであった。

 「なぁ、佐渡。天下人となれば、何でも自分の意のままである、と思うのは間違いだとオレは思うのだ。政道は即ち正道であらねばならぬ。だから信賞必罰で、誰もが納得できる論功行賞を行わねばならない。

 だが、オレは現場の指揮官に過ぎない三成らを斬首し、総大将の輝元や昌幸を助命してしまった。

 上杉と島津をいかにすべきか、首尾一貫した処罰ができるのか考えている。鞍馬で捕らえた島津の家臣を斬首するのは容易だが、それでは辻褄が合わぬ気がするのだ。この違和感をどうすればよいと思う。」と家康は問うた。

 「殿は、この度の謀反をどのようにお考えでしょうか。」と正信は問うた。

 「どうもこうもない。大坂の奉行衆淀殿を取り込み、輝元を担ぎ出したもので、粗筋は恵瓊が書いたのであろう。軍事面は秀家が副大将であり、三成は近江美濃方面の指揮官にすぎぬ。よって最も罪が重いのは輝元だが、政として今更、死罪にはできない。」と家康は言った。

 

伊達政宗像