天海 (207)

 

 

 

 

 「明智日向守光秀、山崎没落ノ時、ヒソカニ遁レテ濃州武芸郡洞戸村佛光山西洞寺ニ隠レ居テ姓名ヲ替テ、荒澤又五郎ト称ス、関ケ原役ニ神君ニ属シ奉ルヘシトテ、親類ヲ率ヒテ出陣セシカ、路次ニテ、川水ニオホレテ死セルト云々、其弟宗三ガ子不立トテ禅僧ナリ、中洞ニ住ス。」(「兵家茶話」)

 

 光秀生存説は多数あり、上記はその一つである。

 小栗栖で影武者となった「荒木行信」の「深い」恩義を忘れないため、「荒深」を姓として、変名を「荒深小五郎」とする説も有名であり、同地には「荒深」を姓とする一族も存在するというのだ。一説には名探偵「明智小五郎」のネタ元ともいわれている。

 

 光秀の伝承は美濃だけではなく京都・大阪にもある。

 妙心寺の日単簿には「明智日向守光秀法名明叟玄智、天正11年6月14日死。十三回忌は文禄4年に当たる。」との記録があるという。

 また妙心寺の大嶺院密宗和尚光秀の叔父で、天正15年(1587年)に蒸し風呂を建立したといわれる。これは「明智風呂」といわれ、国の重要文化財に指定されている。

 また、妙心寺瑞松院玄琳という僧がいた。この玄琳が光秀の嫡子・光慶であると言われているのである。

 玄琳の師は大心院主・三英瑞省といい、細川忠興が檀那となっていた。また、江戸初期には光秀の正室・煕子の実家である妻木家が瑞松院の檀那となっている。

 

 玄琳は、その後修行を経て、南国梵珪となり、岸和田に本徳寺を開いたという。その本徳寺に残るのが、「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」との戒名が刻まれた光秀の位牌である。また、私たちがよく知る光秀の肖像画も本徳寺の所蔵であり、「般舟三昧を放下し去る」との一文があるという。

 

 残念ながら、当時でも秘密にされていたことが、400年以上たった現在、その経緯がはっきりと分かるはずがない。ただ光秀生存説には数多くの伝承があり、「義経がジンギスハーンになった。」という類の話ではないのだ。

 

 天海らは山道を登っていく。倫子も、まさかこれほどの山奥とは思わなかったようだ。かつて天下の覇権を争った大名が、ここに身を隠しているかと思うと表情が暗くなるのは止むを得まい。

やがて視界が開けると大きな寺があり、その周りに十数戸の集落が見えた。

 「ここまで来れば、もうすぐですよ。」と庄兵衛は言う。

 

 光秀の家は古びた茅葺屋根の家である。ただ一般の農民の家よりは広い作りであった。鍵の字に納屋があり、農工具などが置かれていた。

 出迎えにきた光重もとうに50歳を超えているはずであるが、意外にも若々しく見えた。

 「お久しぶりでございます。遠路このようなところまで、お運びいただき誠にありがとうございます。父は近頃さすがに衰えが見られますが、お話しはまだ、しっかりしております。」と光重は言う。

 家に入ると広い土間があり、その奥に囲炉裏があった。天海らは勧められるままに光重と囲炉裏を囲んだのである。この当時、囲炉裏は、煮炊きができ、暖房としても照明としても重宝された。自然と家族が集まる団欒の場でもあった。

 「父は仏間の奥の部屋に居ります。誰ともお目に掛からないつもりでいたようですが、やはり珠子様の件で、思うところがあったのでしょう。正直に倫子様に会いたいと申しておりました。」と言った。

 倫子は深く頷くと目を伏せたのである。

 「どうぞこちらへ。」と天海らは光重に先導され、仏間を抜け奥の間に向かった。奥の間は、庭から光が差し込み、小さな床の間と仏壇があった。そして、その前に光秀はきちんと正座をしていたのである。