天海 (206)

 

 

 

 「従五位下日向守源光秀天正十年六月十三日伏誅

 異説曰光秀山崎没落の時ひそかにのかれ濃州中洞仏光山西洞寺に隠居し姓名を変へて荒須又五郎と称せし。(中略)かかる事ままあり、源義経楠正成なんとも戦死のまねしてひそかにのかれ隠れしなんていふより光秀も濃州にて存命有りしといふにや。凡そ古人の伝記系譜等或はあやまりて伝へてあらぬ事を添たるもあり。」(「随筆 塩尻」)

 

 「達てのお願いがございます。」と倫子は居住まいをただすと、両手を着いた。

 天海が驚いて、「どうした。」と尋ねると

 「人の世は儚いものにございます。今生の別れとなる前に、一目父上にお会いしたいと存じます。」というのである。

 「合わせる顔がないと言って、私も庄兵衛も会ってはもらえぬ。今は光重が世話をしているが、果たして会ってもらえるであろうか。」と天海は首を傾げた。

 やや間があって、「うむ、分かった。庄兵衛に手配してもらおう。珠子様の件もある。分かってもらえるかも知れない。」と言った。

 

 庄兵衛に書状を出すと、二人は旅支度を始めた。仮に対面が不調であっても、美濃までは行こう、ということになったのである。今なら利景から護衛も付けてもらっているので、道中の不安もあまりない。

 

 「そう言えば庄兵衛様とも、しばらくお目にかかっておりませんでした。」と倫子は微笑んだ。珠子の死去以来塞ぎ込んでいたので、この旅は気分転換に良いかもしれない。

 「体調が良ければ、明知城まで足を延ばそう。勘右衛門は、伏見で従五位下民部少輔に叙任し、内府様のご指名で、大坂城で奏者奉行を務めているそうだ。何せ6千500石のお墨付きをいただいたのだから、大した出世ぶりだ。恐らく明知城は方景殿が留守居しているだろう。明知遠山家もほとんど大名と言っていい家格だぞ。」と天海が自分の事の様に自慢げに言うので、

 「さぞお喜びでしょうね。」と倫子もくすくすと笑ったのである。

 「ああ、ただあいつも何かと忙しくて、大坂城では、ついに勘右衛門には会えなかったのだ。」と残念そうに天海は言う。

 「官位をいただいたとなると、これまでの様に失礼な物言いは慎まねばなりませんね。」と倫子が言うので、天海は思わず苦笑いをしたのである。

 

 今年は暑い夏が続いたが、いつの間にやら10月になっていた。

 京都の紅葉はまだ始まったばかりである。

 天海は秋の京都が好きだ。単に美しいだけではなく、儚さと寂しさが漂うのだ。

 冬を迎える前の、ほんの一時の華やかさである。

 

 近江を抜けて峠に差し掛かると山々は、赤や黄色の葉が目立ち始めた。ふいに倫子が峠で足を止め、北方の伊吹山を眺めていた。

 「疲れたのなら少し休むか。」と天海が声を掛けると、倫子は首を振り、

 「この景色を、この目に焼き付けておきたいのです。」と呟いた。

 峠を下りるとそこは関ケ原である。大きな戦いから既にひと月が経ち、何事もなかったかのように見えるが、一皮むけば無数の骸が埋まっているのであろう。天海一行は何も見ないようにと足早に通り抜けたのである。

 

 「遠路、ようお越しくだされた。」と庄兵衛は倫子を気遣う。

 「正直疲れました。無事お目に掛かれて、ほっとしています。」と倫子は笑顔で答えた。

 「お父上様は、倫子様にお目に掛かりたいと申されました。疲れが取れましたら、お伺いしましょう。ただ、実はお住まいは西美濃の国境に近い山の中で、しっかりと準備をした方がよろしいと思います。」と庄兵衛は言う。

 「そうなのですか。」と倫子は少し、不安な顔をした。

 「京都からここまで来たのだ。少し休めば大丈夫だ。」と天海は倫子を励ましたのである。

 「そうですね。あと少しですね。」と倫子は、頷いた。

 美濃の秋の夕暮れは、肌寒い。庄兵衛は天海一行を温かいぼたん鍋で持て成してくれたのである。