天海 (203)

 

 

 

 

 「それで、オレは天国銘の小脇差を出羽守に渡して、後から半蔵に命じて、備前大兼光一振りと馬一疋、黄金100両を届けたのだ。

 それから何年かたって、オレが駿府にいた時に、一人の少年が出羽守の書状をもって訪れた。出羽守の息子で名前は喜多村弥兵衛という。こいつがおれの家臣になりたいという。眉目秀麗で日頃の鍛錬も怠らず、読み書きはもちろん、算術もできるというのだ。それで試しに使ってみたのだが、大変よろしいという事で福松丸(忠吉)の小姓にした。同世代だし、気もあったようで、ゆくゆくは忠吉の片腕にしようと思ったのだ。」とそこまで言うと家康はため息をついて、茶を啜った。

 

 「それで先の合戦で、忠吉は、めでたく初陣を飾った弥兵衛も先陣として初陣を飾り、二人とも立派な働きで、高名をはせたのだ。

 オレはそれが嬉しくて、忠吉を大幅加増しようと考えた。すると忠吉が、是非、弥兵衛にも加増し、1万6千石を与えてくれというのだ。その時オレには一抹の不安がよぎった。ここで予てから気になっていたことを、はっきりさせねばならないと考えたのだ。」というと、家康天海の顔を覗き込んだ。天海は、家康が何を言いたいのか既に分かっていた。

 

 「一、坂本落城之節 内治麻呂當城也 母室乳母侍女共迷煙中 佐々木義郷旗頭鯰江左近嫡同帯刀入城中節 桔梗箭車之両紋以紅染入着諫単衣有女性桔梗明智箭車喜多村紋 帯刀兼而辨知故考可為光秀北室虜躰而圍出城外相副警固士欲送伊賀時於于水口邊 出羽守長臣服部蛇鬼破行合請取之 此時光秀室内麻呂乳母侍女共致 出羽守館」(「玄琳書状 喜多村弥平兵衛宛」)            

 

 「オレは弥兵衛を呼び出し尋ねた。出羽守の子にしては、いささか若すぎるのではないかと。すると自分は出羽守の養子であり、母は出羽守の娘のフセだというのだ。そこで本当の父親は誰だと問うと、黙りこくった。

 しばらくして、両親からはっきりと聞いたことはないが、恐らく明智日向守光秀ではないかと思う、といった。オレはやはりそうかと思った。」と家康は言うと、天海に説明を促したのである。

 

 「その話が本当であれば、日向守の末子・内治麻呂君でありましょう。坂本城を退去の後、伏屋姫は実子の姉弟を連れて、名張城に戻られました。我らが美濃に移ってから庄兵衛が名張を訪れましたが、出羽守殿からは、今後は明智一族とは縁を切りたいといわれ、以降は接触を憚ってまいりました。よもや、徳川の御陣にいるとは夢にも思いませんでした。」と説明した。

 

 家康は頷くと、「忠吉には申し訳ないが、日向守殿の子息を大名に取り立てることはできない。この世にはまだ、太閤恩顧の大名も信長の血縁者も沢山いる。人の口に戸は建てられぬからな、と申した。忠吉は悔しがり、一度井伊家に養子に出し、井伊弥兵衛と名乗らせてはどうかとも言ったが、どのみち同じことである。

 それで弥兵衛はオレが預かることにした。上方ではなく江戸に連れて行き、それなりの処遇を与える。決して悪いようにはしないからと。

 天海、お前にも了解してもらいたい。いずれ同席できる場を設けよう。」といったのである。

 

 天海は深く礼をすると、「何卒よろしくお願いいたします。弥兵衛殿がお望みであれば私はいつでもお会いいたします。是非ともお力になりたいとお伝えください。」と言った。

 

 天海は大坂城を辞すと、京都に向かった。幾分憂鬱な気分ではあったが、家康が悪いようにはしないというのであるから、信じてよいであろう。

 「これから泰平の世が来るのなら、必ずしも武官であることが名誉とは限るまい。弥兵衛は恐らくは伊奈備前守のように江戸で文官になるのであろう。」と漠然と思ったのである。

 

松平忠吉