天海 (202)

 

 

【覇者の道】

 

 

 「慶長五年九月廿七日、徳川家康・秀忠父子、大坂城西丸ニ入リ、是日、本丸ニ豊臣秀頼ニ見ユ。」(「史料綜覧」)

 

 9月17日、家康輝元に両家の友好関係を維持したいとして、大坂城からの退去を依頼した。また淀殿秀頼は、今回の三成の反乱とは無関係であると、明言し懐柔したのである。

 正則長政は輝元に開城を要求し、忠勝直政が「毛利家は領地安堵の意向である。」という起請文を差し出したのであった。(つまり家康ではない。)

 これを受け、9月25日、輝元は大坂城西の丸を退去した。輝元の建前は、「あくまでも西軍の総大将は本人が知らぬところで祭り上げられただけであり、すべての責任は安国寺恵瓊にある。」という事であった。そして輝元は京都の木津屋敷に移った。

 

 家康は笑いが止まらなかったであろう。家康の勝利は関ケ原ではなく、大坂城を押さえたことで、揺るぎないものとなった。これでもう恐れるものは何もなくなったのである。

 

 「三田坂之下ニ被立御帰御控被成候 出羽守儀弐千計之人数召連 山道を押 爲御迎罷出候」(「喜多村市之進覚書」)

 

 

 天海もまた家康と共に西の丸に入った。思えば燃え盛る坂本城から落ち延びて18年が過ぎ、かつての謀反人がこうして太閤秀吉の居城に入り込んでいるのは実に不思議な気分である。家康の許には続々と重臣たちが集結していて、もはや天海が話し相手をする必要もなくなった

 「オレのお役目はそろそろ終わりだな。」と思うと、京都の倫子のもとに戻りたくなったのである。それに、これから始まるであろう粛清も、見ていて楽しいものではない。

 

 天海は正純を通じ、暇乞いをした。すると家康が、話があるから少し待てというのである。後日、書院に呼ばれると、家康は唐突に本能寺の変の話を始めたのである。

 

 「実は本能寺の後、オレが伊賀を抜けて三河に帰った時の話だ。オレたちはまず甲賀の多羅尾の館で一夜を過ごした。」そういうと家康は茶を飲んだ。

 「それから、次に伊賀名張の喜多村家の領地に入ることになってなぁ。そこの城主が喜多村出羽守というのだが、知っているよな。」と天海に尋ねた。

 「はい、良く存じております。」と天海は答える。家康は「うむうむ。」と頷くと、

 「喜多村家は確か、光秀公の後室の実家であったか。」と尋ねるので、

 「出羽守の御息女は伏屋姫と申されます。日向守の側室であり、御正室様が身罷れてからは、奥の方を仕切っておられました。大変、情愛の深い方で、日向守も信頼しておりました。」と説明した。

 

 「そうか、それで服部平太夫というものが、出羽守が明智の縁者であるとして大層気を揉んで、オレの身分を隠すためだと言って、蓑笠を無理やり着せたのだ。オレは暑いから嫌だといったのだが、万が一、襲撃があったら大変だ、として無理やり着せるのだ。

 オレたちは明智が襲ってくるとは、まるで思っていないのだが、世間では明智の追手から逃げていることになっているから、それを、平太夫に説明するのも面倒だ。

 出羽守は襲撃どころか、国境まで護衛をつけてくれて、大層世話になった。それでも平太郎は伊賀を抜けるまで、オレに蓑笠をつけたままにしておった。忠誠心もいいが、何せ暑くてかなわん。

 伊賀を抜け、漸く取ってもいいといわれたが、オレを思っての事だから怒るわけにもいかない。それで冗談で、『お前は今日から蓑笠之助を名乗れ。』といってやったら本気にして、それ以降、蓑笠之助を名乗っているのだ。」というと家康は笑った。

 「それは主君に言われたら名乗るでしょう。」と天海が言うと、

 「すまん、話がそれた。出羽守の話よ」と真顔で言うのである。

 

『東海の城』,小学館,1981.5. 

国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/9570430 (参照 2024-06-08)