天海 (197)

 

 

 

 「義弘公、豊後の海に至りて日既に暮る。公の舟燈を懸げて験となし、衆船をして従わしむ。時に黒田孝高、豊前の小倉城に在り、内府に応ず。安喜城を攻め、哨船を森江港に備へて援兵を拒ぐ。公の侍婢船及び厨船三艘後れて至り、森江哨船の火を望み、以て公の舟なりとなし、進んで港口に入る。」(「島津義弘公記」)

 

 如水安岐城を攻めた時、援兵を防ぐため海上封鎖をした。森江港に番船を配置して、海上の敵船を警戒していたのである。

 一方、義弘の乗った船は燈火をつけて目印とし、僚船三艘はこれを頼りに豊後沖の暗い海を進んでいた。島津の僚船は、いつしか後れを取り、義弘公の燈火を見失ってしまうのである。

 さらに森江港の灯りを燈火と見誤って、自ら港の入り口まで来てしまったというのだ。間違いに気づいた僚船は慌てて沖に引き返したが、黒田の番船は当然の如く、これを怪しんで追跡を開始した。

 

 4艘の島津船は執拗な追撃を受け、ついに逃げ切れなくなったのである。そこで義弘、宰相、亀寿の乗った2艘を逃がすため、僚船2艘が犠牲になることになった。

 こうして島津軍2艘と黒田軍の番船12艘は森江沖で海戦を演じたのである。島津船のほうが大型船だったので、鉄砲・弓矢で黒田の番船を何度も追い払った。しかし相手は名の知れた海賊である。最後は焙烙を投げ込まれて炎上し、沈められたのであった。

 

 9月29日、義弘はついに日向の地を踏んだ。しかし、その後も東軍に付いた伊東方の襲撃を受けたりしながら10月3日、ようやく居城の富隈城に入ったのであった。関ケ原から遁走して19日目の事であった。結局、生きて薩摩に辿り着いた家臣は80名余だったというのである。

 

 島津家の苦闘はまだ始まったばかりである。そもそも本来、島津家としては、徳川方に付くはずであった。それなのに、義弘の独断で大坂方に付いてしまったのである。しかも既に九州は北部を如水、西部を鍋島、中部を清正によって制圧されていて、大坂方についたのは南の島津家のみである。これから島津家の存亡をかけた家康との和睦交渉が始まるのである。

 

 「昨日に変って果てしもなく拡がった紫紺の空に、赤い蜻蛉の群れが高く低く、嬉しさうに飛び廻り、白銀の色を乗せた微風が、すがしい秋草の花揺るがして居る。軍の勢に戦ひ来つた人の心には、今に黎明の明るさなくとも、待つ人に無事の帰還を悦ぶ留守居の面々には、奥方を初め一同が列座に居並んで笑みをつくた出迎えをする。」(「武神立花宗茂」)

 

 宗茂義弘と別れると筑前若松に着船し、陸路で居城である柳川城に向かった。敵方の城を通過するときも、「立花左近将監、居城柳川に立ち帰るため、ただ今、打ち通るものである。」と一々挨拶をして回ったという。武勇で名が知れた宗茂であれば、敢えて兵を出して戦おうとする者もいなかったのである。こうして、宗茂は無事、柳川城に帰還した。

 城内のものはもちろんのこと、領民たちも宗茂の帰還を悦び、老若男女が押しかけ雑踏の如くなったという。

 

浅川漏泉 著『武神立花宗茂』,昭和堂書店,昭和14.

国立国会図書館デジタルコレクション 

https://dl.ndl.go.jp/pid/1106126 (参照 2024-06-01)