天海 (195)

 

 

 

 黒田如水は家督を嫡男・長政に譲り、既に隠居の身である。その長政は家康麾下で武勇・調略両面で活躍し、まさに若手の有力大名となっていた。

 長政の会津遠征中、如水は留守居として中津城で領国を守っていた。しかし、ただ城を守っていただけではないのが、如水の真骨頂である。密かに家康と結び、間者を放って上方の情勢を調べ上げていた。三成の挙兵を知った如水は、すぐに中津城の金蔵を開け、傭兵を募り、9千人の即席軍を編成したのである。

 

 さて、九州の大名である大友宗麟の嫡男に義統という男がいた。天正4年(1576年)に宗麟から名家・大友家の家督を譲られるが、その実情は名ばかりの当主であった。

 この大友義統という人物は生来「不明惰弱」と評される。(「九州諸家盛衰記」)つまり、「見識がなく、臆病だ。」というのだ。そのうえ酒乱であったというから、まるで良いところがない。だから宗麟もなかなか全権を譲れなかったのであろう。

 

 その後、大友家は島津家との抗争に明け暮れ、耳川の戦いで宗麟が敗北すると大友家は傾きだす。名ばかりの当主の義統も、ここぞとばかりに活動したので家中は分裂を始めたのである。

 天正8年(1580年)には家臣の反乱が相次ぎ、さらに重臣・立花道雪(宗茂義父)が病死した。家中がこのような有様であったため、領国であった筑前・筑後・肥後竜造寺家島津家に侵食されてしまうのである。

 天正14年(1586年)には島津義久の侵攻を受け、高橋紹運(宗茂実父)が岩屋城で戦死すると、いよいよ大友家は滅亡の危機に瀕するのである。

 

 窮地の宗麟は秀吉に救援を嘆願した。すなわち、家臣として秀吉の配下になったのである。こうして秀吉の九州征伐後、大友家は豊後国37万石として存続を許されたのであった。

 

 豊臣政権で義統は、何故か秀吉に気に入られていたようである。名前も偏諱を受けて「吉統」と改め、参議に列している。

 ところが、文禄2年(1593年)平壌の戦いで、行長から援軍要請が来ていたにもかかわらず、行長が戦死したという誤報を信じた。生来の惰弱が露呈したか、在番の鳳山城まで捨てて逃げたのである。これが秀吉の激しい怒りを買ったのであった。

 

 名護屋城に召喚された義統は、本来なら切腹であったが、名家であるという三成の意見により、改易・幽閉となったのである。それで身柄は徳川家にお預けとなり、その後も佐竹家、毛利家と幽閉が続いたのであった。大友家の家臣たちは、お家再興を信じ、他家の客将として糊口をしのいだのである。

 

 慶長3年(1598年)、秀吉が死ぬと、後継の秀頼から特赦を受け、漸く罪を許されたのである。増田長盛から大坂天満に屋敷を与えられ、豊臣家に再び仕えることになった。

 慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いが起こると、大坂城の総大将・毛利輝元から豊後国侵攻を命じられる。秀頼から鉄砲300丁、武器、武具、馬、銀を贈られ、勇躍九州に向けて出航したのである。

 宗茂から2千石の知行を得ていた旧臣・吉弘統幸は「嫡男である義乗様が秀忠公の近習に取り立てられているので、徳川家にお味方すべきである。」と強く諫めたが、既に妻子を人質に取られていたこともあり、義統は聞き入れなかった。その時、輝元からは豊後一国の恩賞を約束されていたという。

 

大友義統