天海 (194)

 

 

 

 

 関ケ原を脱出した義弘伊勢街道を南下して、敵の追撃をかわしながら養老山の駒野峠で宿営をした。5人の従者が食料調達のため村に下り、50人分の握り飯を依頼したのだが、どうにも様子がおかしい。不審に思い覗いてみると村人が武装しているではないか。従者たちは大急ぎで逃げたが、追いつかれた二人は撲殺されたという。いわゆる落武者狩りである。

 

 これで腹を括った義弘一行は、今度は別の村を襲撃して食料を調達するのである。ある時は、身元を隠すため義弘を敢えて座敷にあげず、従者の様に土間で飯を食わせたというのだ。

 さらに伊賀上野では300人の落武者狩りに遭遇するも、これを蹴散らし、信楽では亭主を縛り上げ、騒いだ女房・隣人を打ち殺したというから、もはや夜盗と変わらない。

 

 こうして摂津国住吉に入った義弘は旧知の商人であった田辺屋道与(のちの旧田辺製薬)のもとに転がり込むのである。道与は「義弘は死んだ。」と聞かされていたので、さぞかし気が動転したことであろう。

 摂津で義弘は大坂城の様子を探る。大坂城は、まだ輝元が掌握しているようで、島津の人質である宰相(義弘正室)亀寿(義久娘・忠恒正室)も無事であった。そもそも義弘が西軍に付いたのは、この二人が人質に取られていたからで、義弘にとっては、命にも代えがたい存在であったのだ。しかしこのような事情を知らぬ島津本家は、勝手に西軍に付いた義弘に激怒していて、一切援軍を送らなかったのである。

 

 道与は義弘たちのために塩屋孫右衛門船を手配してくれた。

 その一方で義弘は人質を大坂城から脱出させようと画策する。大坂城の門番の警備は厳重であり、二人が城から出るには奉行の発行する「通行手形」が必要であった。そこで「義弘戦死」の誤報を逆手に取り、「秀頼様を守るため名誉の戦死をした義弘」の正室・宰相が悲嘆にくれ、あまりに哀れであるから、帰国させてくれ、と繰り返し頼み込んだのである。奉行も根負けしたのか、ついに宰相一人の「通行手形」を発行したのであった。こうして宰相とその侍女に扮した亀寿無事城を脱出したのである。

 

 義久は宰相と亀寿を連れて大坂川口から4艘の船で出航することができた。まさに義弘の執念たるや恐るべし、である。そして驚いたことに西宮で宗茂と出会うのである。

 

 因縁深い二人ではあったが、当時33歳の宗茂65歳の義弘とは何か通じるものがあったようだ。宗茂は島津勢の護衛を買って出たのである。

 出航から5日目、安芸日向泊りで宗茂は義弘の船に行き、友誼を深めたのである。

 二人はともに、輝元に大坂城決戦を進言したものの入れられず、人質を奪還し、命辛々大坂から逃れてきたのである。話が進むうちにともに落涙し、親子ほど年の離れた二人は再会を約束して別れたという。

 

 伊予灘まで来ると島津勢立花勢はそれぞれの領国に向かって分かれていった。西に向かった宗茂、南に向かった義弘であったが、その二人の前に立ちはだかる新たな強敵がいたのであった。

 その名は、黒田如水である。

 

島津義弘

中沢巠夫 著 ほか『人物日本歴史』3

(戦国時代~江戸時代初期),東西文明社,昭和34.

国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/1627840 (参照 2024- 05-31)