天海 (192)

 

 

 

 「遠山久兵衛、時はよしと次山治郎兵衛を城中に遣はし言はしむるやう『今度家康公の命により我々討手に向たり。和戦何れに決せんとするや』と問はしむ。田丸暫時の猶予を請う。程経て田丸の使者来り答へて曰く。『諾せり然れども城将親しく攻将に合せんとす遠門まで來駕を乞ふ』と依て之を諾す。」(「妻木戦記」)

 

 東美濃の岩村城にも関ケ原の戦いの知らせが届いた。遠山友政は「時機が来た。」と判断し、次山治郎兵衛を使者として立てたのである。

 城将・田丸主水はしばしの猶予を乞うた。関ケ原で家康の勝利が確定した以上、早晩、東美濃にも徳川軍が大挙してやって来るであろう。主水は何か話したいことがあったようで、迎えの駕籠を要求したのである。

 

 「其時田丸中務は物のすきまに一尺八寸の太刀をさして家老石部外記を召伴れ、遠門へ来れり。苗木の家臣纐纈藤左衛門、黒糸の鎧にくさり手拭にて鉢巻し、二尺八寸の太刀十文字にさし中務に面接せり。田丸もとどりをたち悄然たり。中務曰く『開城の事仔細なし。是より高野山に赴かんとすれどもその旅足なし。乞うこれを給せよ。且つ白晝に城を出んは余りに面目なし。暮方に出発せんとす。是より西美濃まで案内一人添へられたし』と。」(「妻木戦記」)

 

 「妻木戦記」では田丸中務(直昌)となっているが、この時、直昌は大坂城の守備についているので、実際の城将は田丸主水と思われる。

 どのような要件なのか、分からないため、友政は家老の纐纈藤左衛門を面談に向かわせたのである。遠門の主水は髻を落とし、散切りとなっていた。そして、「降参することに異存はない。これから高野山に向かうが、生憎路銀がない。用立ててほしい。」というのである。さらに、「日昼城を出るのは敗残兵として余りに惨めだ。立ち退きは暮れ時とし、案内人もつけてほしい。」と言うのである。藤左衛門はこれを快く承諾したのであった。

 

 「中務は旅装束にて家老を召連れ郎党足軽に長刀一振持たせ、主従四名共に城を忍び出づ。苗木も籐左衛門を以て黄金五十両を贈る。田丸その厚意を謝して曰く『是は田丸の家に数代伝ふる太刀なり。今、苗木殿へ進上せん』と長刀差出せば籐左衛門請取り偖足軽二人呼出し『案内者として西美濃太田邊迄同伴せよ』と命じて。陣所へ帰りけり。此事南攻手の両将へ告げければ、明知小里の勢も陣所を撤せり。」(「妻木戦記」)

 

 籐左衛門は人質小屋から人質84名を開放すると、城内からも家臣・女房衆が300人以上出てきて、それぞれ思い思いに退散していった。

 主水は、大門に『武門営耀暫時夢 業障輪廻報此機 堪恥零丁衰弊苦 誰知今日別離思 岩村に たまるものとて 雪計り 消えもやせんと 思う我が身も』と書すと、足軽に一振りの太刀を持たせて、旅姿になって城を出たのである。籐左衛門は主水に路銀として黄金五十両を渡すと、主水は深く礼を述べた。主水にとっても辛い籠城であったのだ。田丸家の家宝である太刀苗木家に進呈すると、主水主従4名は案内人と共に、西美濃に落ちていったのである。

 

 遠山・小里勢は空き城となった岩村城に検分に入ったが、既に城内には一人の敵もなく、風が吹き抜けるばかりであった。広間には弓・鉄砲・馬具などが山のように積み上げられていたという。

 その有様を見て、遠山・小里の諸将は憐れみを禁じ得ず、皆が涙したという。

 その後岩村城は、遠山利景がとどまり、土岐城は嫡男・方景明知城は養子の経景が守備に入ったのである。苗木城は友政が戻ったので東美濃は遠山氏が復帰を飾ることになったのであった。

 

岩村城跡