天海 (190)

 

 

 

 「数千之頭実験有而諸卒人馬被休息 佐和山へ御人数よせられ 内府公其夜山中 大谷刑部少居陣之小屋に御陣を居させられ 井伊兵部大輔 御先手今州に陣とらせ御馬廻前後左右段々に御陣取候也 佐和山には 石田隠岐守 宇田下野守 石田木工頭 息右近 盾籠難抱見及上﨟子共呼双 是にて腹を可伐也。」(「内府公軍記」)

 

 9月16日、家康は近江に入ると、秀秋・直政・田中吉政佐和山城を攻めるように命じた。佐和山城は三成の父・正継、兄・正澄らが2千800人で守っていた。城兵は鉄砲を撃ち抵抗するが、忽ち本丸に押し込められたのである。

 9月17日、正澄は直政の陣に使者を立て、一族衆は切腹するので、城兵は助けてほしいと懇願した。家康はこれを許し、石田一族は切腹し、佐和山城は落城したのである。その有様を牛一は次の通り伝えている。

 

 「思定恨共不可思とて心強くも一々妻子さし殺し筭を乱す有様目も当てられぬ様躰也 是をみて女は無墓者と噇と悲しみ叫声佐和山も崩るる程に覚えたり」(「内府公軍記」)

 

 佐和山城には金銀は何もなく、三成は私腹を肥やすような人物ではなかった。家康は吉政を呼び出すと「貴殿は近江の出身であるから、地理に詳しいであろう。江北に行き三成を探し出せ。」と命じたのである。

 

 9月17日、正則、長政が大坂の毛利輝元宛に「内通していた吉川広家が毛利家を大切に思っているので、内府も輝元には落ち度はないと考え、今後も会談する意向だ。」と伝えた。

 輝元は、領国が守られたことに感謝の意を伝えたというのだが、本当にそう思っていたのなら、輝元は余程おめでたい。

 

「田中兵部 仰蒙而夏之鹿を狩るか如く 草を分け而 尋捜折なれは綾羅錦繍に身を飾崇敬せられし身なれ共乞食に成り替わり目も当てられぬ有様也。余に不便に思しきと言えども小袖を下され衣装を改め候也 正義に非ざれば民の憎む所、天は必罰の因果歴然之道理、遁れ難き次第也。」(「内府公軍記」)

 

 9月19日、家康は草津に入った。すると伊吹山に逃亡していた小西行長が捕らえられたとの報が届く。

 9月21日、大津城にいた家康のもとに、北近江で三成が捕らえられたとの知らせが入った。さらに京都で安国寺恵瓊も捕らえられたのであった。

 

 三成を捕らえた吉政は、浅井家家臣・宮部継潤に仕えていた。その後、継潤は織田家に投降し、秀吉の家臣になったのである。秀吉が天下を取ると、秀次の宿老に任じられている。秀次切腹事件では多くの宿老が自害する中、「日ごろから秀次に諫言していた。」という理由で、加増され、三河岡崎10万石の大名になったのである。

 吉政は悪人として描かれることが多い。「明良洪範」という書物では、吉政は三成に「内府に助命を請う。」と欺き、「武具や財宝をだまし取った。」と書かれている。しかし、この書は江戸中期に書かれたものである。

 

 同時代の書物である「内府公軍記」には、落ちぶれて乞食のような身なりになっていた三成を憐れんで、吉政は小袖を与えたとなっている。

 また、腹痛に苦しんでいた三成に韮粥を与えたともいう。

 最後は「捕縛者がお前で良かった。」と三成は、礼を言い、太閤から授かった脇差を与えたのである。

 吉政は、治世に優れ、気さくで大らかな人物であった。だからこそ、不行跡を重ねる秀次を強く諫めていたのであろう。満更、悪い人物ではなさそうである。

 

 

田中吉政